近頃では邪馬台国九州説派でも特に、邪馬台国を吉野ケ里や甘木朝倉或いは日田辺りの、伊都国から比較的近場に比定したい論者に古田武彦案を引用した説が大人気であり、自説に都合が良いからとして、安易に飛び付く論者が多いようです。

この古田説では邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に、

終点を萬二千余里先の邪馬台国に置いていますが、

根拠が不明なこの説は、果たして本当に成立するのでしょうか?

 

古田氏は邪馬台国へ行程を主線行路、投馬国や奴国への行程を傍線行路と名付け、

主線行路の起点を帯方郡に傍線行路の起点を伊都国、或いは不彌国に置くと、

魏使団に韓国国内や対馬及び壱岐島内を陸行させる極めて不可解な主線行路を辿らせた挙句、邪馬台国を不彌国の門前で奴国の隣に行き着かせています。

しかし私は古田説のように、各国への行程を主線行路傍線行路などと勝手に分類し、自説の都合に合わせて好きに使い分ける説はあまりにも恣意的であり、到底納得できる説ではないと思っています。

 

その点から考えてみると、九州説派の大部分は古田氏とは異なり、邪馬台国が奴国の隣に在ると考えている論者は殆どいないのだから、彼らは古田説から邪馬台国に至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置くアイデアだけ借用すると他の論点はほぼ無視して、各論者の考える邪馬台国比定地に上手く辿り着ける説を論じているのです。

 

そうすると本来は、古田案を借用しただけのはずなのに、何故か魏使団に韓国内を陸行させている論者は多いようです。

 

本来『魏志倭人伝』には「海岸に沿って水行」と記されるのに対し、古田説によるとこの場合の「水行」とは現在の京畿湾を横断することであるとして、魏使団を上陸させてしまい、また「歴韓國乍南乍東」は韓国内をジグザグに辿ることだと云う勝手な解釈で魏使団に韓国内を陸行させており、しかも魏使団は韓国民に魏の威を知らしめる為、倭国に齎す大量の下賜品を韓国民に見せびらかしながら、韓国内を堂々と行進したと語っているのです。

 

しかし、現実を見てみると、当時韓国内の治安は乱れており、もし本当に魏使団が韓国内を陸行したのなら下賜品は容易に山賊どもに奪われたはずです。なにしろ梯儁を倭国に遣した帯方太守弓遵は韓兵と戦って殺されているくらいだから、魏の威なんてものは何の役にも立たなかったのであり、即ち、古田氏の話は単なる妄想に過ぎないことになります。

つまり、下賜品を山賊の襲撃から守る為にも当時魏使団に水行は必然だったのです。

 

以上より、古田氏の案である、邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説は、残念ながらまったく成り立ちませんので、この考えの引用は無駄でしょう。

 

更に古田説では魏使団に対馬国と壱岐国の島内も陸行させていますが、その場合魏使団は港に着くと船を乗り捨てて「道路如禽鹿徑」と称される対馬山中を、重い下賜品を人力で運ばねばならなくなります。

また次の港から水行を再開する際には、新たな船を何処かから調達して来なければなりませんが、そのような船はいったい何処に在ると云うのでしょうか?

仮に島に着いた時に乗り捨てた船を次の出発港まで水行で運んでくるとしたなら、魏使団禽鹿の徑である對馬国竹木叢林だらけの一支国の島内を頑張って、下賜品を運搬したことは全て無駄になります。

 

このように古田氏の説く魏使団に対馬と壱岐を陸行させる説は全く現実性がなく、

実際は梯儁らの帯方郡使は荷を船に積んだままで、

官庁のすぐ近くに在る港迄水行で至ったに違いありません。

 

 

 

 

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