邪馬台国論争は新井白石や本居宣長以来、三百年以上も、争われてきたのだが、
未だに決着を得ないのは、いったいどういう理由があるのだろうか?
それは『魏志倭人伝』に邪馬台国は伊都国や奴国、或いは不彌国の南に在るとされ、
更に帯方郡から邪馬台国迄が萬二千余里と記されているのに、
論者たちはこれ等『魏志倭人伝』の記載を全部ウソだと決めつけて、
地元や畿内大和などの自分の求める場所に邪馬台国を持って行く為に、
『魏志倭人伝』を都合よく読み替えてきた論者が多過ぎるせいだと私は考えている。
なにしろ、記載を論者に都合良いように改変する読み方を認めてしまうと、
もはや『魏志倭人伝』はどうにでも解釈できてしまうのである。
そうやって論者たちは、自説のみが正しいと必死で言い張っているのであるが、
彼らの主張は単に、他人の説の弱点を上げ連ねて、非難しているだけで、
自説の正当性を明らかする努力はまったく疎かにしているのである。
多分、彼らの目的は地元などに邪馬台国をなんとか持ってくるだけであり、
その為に最も重要な理論は殆ど考えたことが無いのであろう。
例えば邪馬台国畿内説だが、この説は『魏志倭人伝』の道程を読み替えなしに、
邪馬台国を畿内に持って行く事は無理だと最初から解っているのであるから、
邪馬台国畿内説派は、『魏志倭人伝』の記載から邪馬台国への道程を辿るのは、
早々と諦めて、放置しているようで、今は三角縁神獣鏡の記銘年などの、
考古学的知見のみから自説を主張しているらしいのである。
しかし、考古学的所見でも、弥生時代の畿内地域は『魏志倭人伝』に記される、
鉄の鏃などの武器の出土が非常に少なく、更には北九州地域によく見られる、
1~2世紀の墳丘墓から出土する中国王朝から下賜された宝物などの出土が、
ほぼ皆無であることからも、考古学的にも邪馬台国を畿内に持って行くことは、
非常に困難となっているのが、現状である。
その他『魏志倭人伝』を都合よく解釈した説があり、それが邪馬台国徳島説である。
この説は『魏志倭人伝』に「倭国は朱を出ず」と記されることと及び、
若杉山から辰砂(水銀)が出土することが発見されたことを合わせて、
邪馬台国は徳島だったとする説を言い張っているのである。
ところが、朱なんて代物は、日本中、あちこちで取れるものであり、
別に朱が取れたからと云って、その地が邪馬台国である、
決定的な理由には成り得ないのである。
つまり、この説は、邪馬台国へ至る道程の問題などは何も顧みもせずに、
単に一つの視点のみから、決めつけただけの説のようである。
さまざまな邪馬台国論をそれぞれ詳しく検討してみると、
その大部分がこの程度の論であることが解るのであり、
殆どまともに取り扱う価値のないものばかりである。
だが、この問題の根底には、邪馬台国論界は、
明らかに間違った説でも、とりあえず市民権を与えてきたので、
問題がややこしくなってしまったのである。
邪馬台国の位置に関して、未だにさまざまな説が跋扈しているのは、
実にこの為であると私は考えている。
間違いが明らかな説の中で、非常に有名なのは古田武彦説がある。
この説は邪馬台国に至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説である。
そして古田氏は、邪馬台国を奴国の辺りに在ったとしているのである。
だが、この説の場合、南投馬国へ至る水行二十日の起点は帯方郡に置けずにいる。
そして、投馬国へ至る南水行二十日は不彌国を起点にしているのだが、
このように起点をあちこちに置く説は、信憑性が次第に欠けていき、
結局、論者の好きなように作っただけの説と思われるのである。
特に『魏志倭人伝』には「海岸に沿って水行し」と書いてあるのに、
古田説では帯方郡使に韓国内を大部分陸行させているのだから、
無理に陸行させた理由が真っ先に問われているのである。
なにしろ、梯儁を倭国に遣わした帯方太守弓惇などは、
韓族と激しく戦って、結局殺されているくらいだから、
当時、韓国内陸行は非常に危険を伴う行程であり、
もし陸行したならば、帯方郡使の運んでいた大量の賜遺之物は、
すぐさま野盗たちに奪われたと思われるのである。
つまり、帯方郡使の経路に、韓国内陸行は絶対に有り得ない。
ところが、邪馬台国九州説派の多くは、古田説に影響を受けたらしく、
様々な詭弁を用いてでも、帯方郡使韓国内陸行を言い張る論者が、
非常に多いことも、又事実なのである。
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