【榎放射説】の欠点は、帯方郡使の梯儁らは来倭後伊都国に留まり、
倭女王卑弥呼の居す倭国の王都邪馬台国へは行っていないとした点にあろう。
ところが、実際に『魏志倭人伝』を見ると、
「正始元年(AD240)、
太守弓遵は建中校尉の梯儁等を遣し、
詔書印綬を奉じて倭國に詣り、
倭王に拜假し、并に詔を齎し、
金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜う。
倭王使に因りて上表し、詔恩を答謝す。」
と記されています。
つまり、梯儁(ていしゅん)らは明らかに倭国の王都・邪馬台国に行っており、
倭女王卑弥呼に拝仮(仮に拝礼=魏帝に代わって謁見)して、並びに、
【親魏倭王】銘の詔書と印綬、及び銅鏡百枚等、多量の下賜品を倭に齎しており、
卑弥呼は魏明帝に対し、【親魏倭王】に制詔して頂いた御礼の手紙を、
梯儁らに上表(託)しているのです。
そこで私は、多くの邪馬台国論者たちが考えているように、
『魏志倭人伝』の記す邪馬台国へ至る道程記事を書いたのは、
じつは正使の梯儁らではないんじゃなかろうかと考えました。
何故なら、『魏志倭人伝』には明白に、
卑弥呼が魏に遣使した年は景初二年(AD238)と記されているからです。
ところが実際には、魏の明帝は景初三年正月に急死しているので、
その年喪中となった魏は、倭国に正使を派遣できなくなり、
梯儁らの派遣は正始元年(AD240)迄、差し控えられたのだと思われます。
しかしながら、景初二年十二月洛陽に朝献に訪れた、難升米らの倭使は、
何時までもぐずぐずと洛陽に留まっているわけにはいきませんでした。
何故なら、難升米らの倭使は一刻も早く倭国の王都邪馬台国に帰還し、
卑弥呼が魏明帝から【親魏倭王】に制詔され、更に大量の下賜品を戴いたことを、
倭女王卑弥呼に伝えなければならない使命があったからです。
すると、明帝はこの後、卑弥呼へ贈る大量の下賜品の品名を並べた最後に、
次のように述べています。
「皆裝封付難升米・牛利、
還到録受、悉可以示汝國中人、
使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」
(目録を)皆装封して(封書に閉じて)、難升米と午利に付す(ことづける)。
(難升米らが)倭国に還り到れば、(卑弥呼は)封書を開いて目録を確認し、
(これから倭国に齎されるであろう)下賜品の内容を倭国中の人に示して、
私(魏明帝)が汝(卑弥呼)を哀れんで(慈しんで)いることを知らしめよ、
故に私(魏明帝)は汝に、鄭重に好き品々を賜うなり。
ここで難升米らが付されたのは下賜品ではなくて、その目録である証拠は、
付された人物は倭使の難升米と都市午利であるのに、
実際に下賜品を倭国に齎した人物は、正使の梯儁らだからです。
更に明帝は、次のようにも述べています。
「汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、
今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、
假銀印青綬、引見勞賜遣還。」
汝(卑弥呼)が遣わした使者の、難升米と(都市)午利は、
はるばる遠き道のりを洛陽迄至り、はなはだご苦労であった。
今を以て、難升米を率善中郎将、(都市)午利を率善校尉と為し、
これ等の職名を刻んだ銀印と青綬を二人に仮に授与し、
二人を私(魏明帝)の手元に招き寄せて、その苦労をねぎらい、
(倭国に)返し遣わしてあげよう。
以上の話からも解るように、難升米らの倭使は二年後の、
正始元年に遣わされる予定の梯儁らを無意味に待って、
共に倭国に帰還することはなく、その前年の、
景初三年中に倭国に還し遣わされたはずなのです。
そうすると、この時倭使を送還した帯方郡使は、
正始元年に王都邪馬台国を実際に訪れた梯儁らとは異なる、
倭女王卑弥呼に謁見する資格を持たない、
魏の正使ではない、(仮の)帯方郡使だったはずなのです。
ところが彼らは「倭国調査隊」の使命も帯びていたので、
(梯儁らが上陸した)国際貿易港である伊都国には上陸せずに、
その手前の末盧国でわざわざ上陸すると、その後、
「行くに前に人を見ず」と称される程の悪路を五百里も陸行したのち、
「郡使往来常所駐」と記される伊都国に駐留しながら、
倭人からの伝聞を元にして、
倭国の王都邪馬台国へ至る道程記事を含む、
「倭国報告書」を書いていたに違いありません。
だから、『魏志倭人伝』の記す邪馬台国と投馬国へ至る道程は、
(仮の)帯方郡使が伊都国に於いて倭人から伝聞した話であるから、
伊都国を中心に、放射的に書かれることになったわけです。
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