聖徳太子の長男 山背大兄皇子

手に持つのはペルシャ製のランプ

 

前回までにこのブログで示したように、

聖徳太子=厩戸皇子=蘇我善徳=アマタリシヒコは女帝・推古天皇の摂政ではなくて、

実際には倭国の大王(おうきみ)=後世で云う天皇だったらしい。

 

そうすると、聖徳太子の没後に倭国を統治していた人物は、

聖徳太子の皇太子だった山背大兄皇子=山背天皇である可能性が高いのだが、

 

『日本書紀』は推古天皇の遺言などと云うかなり言い訳がましい記載を加えることで、

山背天皇を無かったことにし、当時の天皇を舒明天皇=田村皇子としているわけである。

 

ところが、ここでも又、例のウソの書けない正直な『日本書紀』編纂者は、

この話がウソであることのヒントを暴露してしまっているのである。

 

それが舒明天皇の没年を百済武王と同じ紀元641年としていることであり、

しかも舒明天皇は百済宮で亡くなり、百済宮で殯が行われたと記されることです。

 

後世の意地でも『日本書紀』は真実を記していると信じて疑わない学者たちは、

この百済宮のことを倭国内に在った宮殿だと考えたらしく、

奈良県に在る百済寺が百済宮のことだと言っているようだが、

私はこの話は本来『百済本記』辺りが記す百済武王の話から採ってきたものと考えており、

百済宮とは正真正銘、朝鮮半島の百済にあった百済宮のことだと思われます。

 

勿論、舒明天皇(田村皇子)が敏達天皇の皇子の彦人大兄の子であり、

同じ敏達天皇の皇女で異母妹となる糠手姫と結婚して母に持つとしているのは、

例によって『日本書紀』の捏造に過ぎないだろう。

このように異母兄妹同士で結婚することが、現実に在ったとは思えないからである。

 

田村皇子の名は、済州(チェジュ)島の古代名が耽羅(タンラ)島であることにも繋がっている。

つまり、耽羅(タンラ)島⇒(タムラ)島からやって来た皇子と云うことになります。

これは舒明天皇、即ち百済武王の子と思われる百済王子翹岐(ぎょうき)が、

百済から耽羅島を経由してやって来たと『日本書紀』に記されることに因んでいるようです。

 

すると百済武王の后で王子翹岐(ぎょうき)の母親である善花妃辺りが、

『日本書紀』の言うところの宝皇女であり、皇極天皇にあたることになります。

つまり、『日本書紀』の記す皇極朝とは実際にはなかった王朝で、

当時は未だ山背王朝が続いていたわけです。

 

ところが、宝皇女自身は実際に、斉明朝で倭王=日本の天皇になりました。

つまり、斉明天皇は重祚ではなく、この時に始めて倭王となったのです。

 

ところで、宝皇女の娘には間人皇女がいます。娘が波斯人だと云うことは、

斉明天皇自身もやはりペルシャ人の血を引いていた可能性が高くなります。

 

斉明天皇の子供が、間人皇女と中大兄皇子、大海人皇子とされていることに関しては後述。


 

 

 

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