聖徳太子と向かって左が用明天皇の第五皇子の殖栗皇子、向かって右が息子の山背大兄皇子

 

以前は一万円札のアイコンとして、日本人に親しまれていた聖徳太子ですが最近では、

聖徳太子の実在の有無を問題視する意見が勃発して、世間を騒がせています。

 

だが私にはこんな話に拘る人は非常に暇人に見えます。

聖徳太子はその実像がどうであれ、当然の如く、実在したのです。

もし聖徳太子の実在を否定するなら、法隆寺や数々の像も全て抹殺せねばなりません。

 

勿論、聖徳太子とは後世でこの人物に対し付けられた称号(尊称)であり、

実名は「厩戸豊総耳皇子(うまやどのとよふさみみのおうじ)」と『日本書紀』は記します。

だが私は厩戸皇子(厩戸豊総耳皇子)自体も又別称に過ぎないと思っています。

聖徳太子の本名はこれから述べるように、別にあります。

 

また『日本書紀』は聖徳太子は推古天皇の摂政だったと記していますが、

当時の中国側の文献、『隋書』を見てみると、

 

「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」と記されており、

 

当時の倭王「阿輩雞彌(オオキミ)=大王」は

姓が「阿毎(アマ)」で名は「多利思北孤(タリシヒコ)」だとされるのである。

しかも、「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、

アマタリシヒコは雞彌(チミ)と云う名の正妻がいて、後宮には600-700人の側室がおり、

長男の名は利歌彌多弗利(ワカミタフリ)というらしいのである。

 

このことからも、当時の倭王は明らかに男性であり、

推古天皇なる人物は『日本書紀』の中にしか存在しないのである。

 

勿論、遺号を額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、和風諡号が豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)とされる女性はいたかもしれないが、

漢風諡号が推古天皇なる人物は、隋側では全く認識されていないのである。

 

つまり、隋が倭王の阿毎多利思北孤(アマタリシヒコ)と捉えていた人物は、

日本側では厩戸皇子(聖徳太子)と呼ばれていたに違いない。

聖徳太子の膨大な事績は倭王でなければ出来ないものだからである。

これを摂政として成したと考えるから、混乱して、非実在説などが出てくるのである。

 

ところで、『日本書紀』では蘇我馬子の長男は蘇我善徳(ぜんとこ)とされている。

 

乙巳の変で討たれた蘇我入鹿の父とされる蘇我蝦夷は蘇我馬子の次男である。

 

この蘇我善徳、『日本書紀』には飛鳥寺の初代寺司となったと記されている。

この記載の後、蘇我善徳は『日本書紀』から消え去るのである。

そして、代わりに登場するのが、厩戸皇子(聖徳太子)である。

 

当時、その飛鳥寺に寝泊まりしていたのが、高句麗僧の慧慈(えじ)と百済僧の慧聡(えそう)とされている。

 

ところが、この慧慈慧聡であるが、厩戸皇子の仏教の師匠とされているのである。

つまり、慧慈慧聡及び蘇我善徳は共に、飛鳥寺で修業をしていた身であって、

蘇我善徳と厩戸皇子は同一人物と考えることは可能と云うか、そう考えるしかないのである。

 

因みに、厩戸皇子とは蘇我馬子の家に生まれた皇子と云う意味と考えるべきである。

 

 

 

ところが、世間には蘇我善徳=聖徳太子=蘇我入鹿説なるものが存在するらしい。

この説は蘇我善徳=聖徳太子はこのように十分に考えられるのだが、

聖徳太子=蘇我入鹿なる要らん説が混ざり込んでいるから混乱するのである。

 

蘇我入鹿は聖徳太子とは一世代違う人物であり、

聖徳太子=蘇我善徳の弟である蘇我蝦夷の息子なのである。

 

この辺を平気で混同している人がいるから、訳の分からん説が出てくるのである。

 

ところで、朝鮮では善徳女王が(632~647年)にかけて、新羅を統治しているのだが、

この時代、倭国でも新羅でも善徳の名前が流行っていたようだ。

因みに、聖徳太子の摂政在位は(593~622年)とされている。

 

 

 

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