徐福が書いたとされる古代文字のレプリカ「徐市過此(ソブルクァチャ)」と書いてあるらしい。

 

 

是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。

乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲国簸川上所在、鳥上之峯。

 

(現代語訳)

是時、素戔嗚尊、其の子五十猛神もろとも、新羅国に降り到り、曾尸茂梨之処に居す。

此処に於いて(素戔嗚尊)言いて曰く。「此の地、吾居ることを欲せず」

すなわち遂に埴土を以て舟を作り、之に乗りて東に渡り、

出雲国の被の川上に在る処の鳥上の峯に至る。

 

このように『日本書紀』第八段一書其の四によると、

高天原=倭国を追放された素戔嗚尊は

いったんは息子の五十猛命と共に新羅国に降臨している。

因みに新羅国は『記・紀』編纂時、朝鮮半島にあった国である為にこう書かれているが、

素戔嗚尊伝説が出来たと思われる弥生時代末期にこの地方は辰韓と呼ばれていた。

辰韓の辰は秦国のシンのことである。

秦の時代、始皇帝の圧政から逃れて、秦国から多くの人が朝鮮半島に移住していた。

馬韓の王は韓の南西の地を割いて秦人に住まわせ、その地を辰韓と呼んだという。

 

ところでこの記載から素戔嗚尊は朝鮮半島出身者と考える論者が多いようだが、

実際の処、須佐之男命は新羅国=朝鮮半島南部に降臨するも、

この地は嫌だと云って、そうそうに船に乗り、出雲国へ渡っている。

このように素戔嗚尊は朝鮮半島を異様に嫌っていることからも、

本当に朝鮮半島出身者の態度なのだろうか?と疑われます。

つまり、素戔嗚尊も本来はやはり秦国の出身者=秦人ではないのか?

それで一度辰韓之地に至るも、この地は嫌だとして、倭国に移住したと思われる。

 

また、「曾尸茂梨」とは朝鮮半島にある牛頭山のことだから(実際は伝説上の山)、

牛頭天王と呼ばれる素戔嗚尊の出身地とする説もある。

だが私は、この説は祇園信仰伝来後に出来た、一種の神仏集合説だと考えている。

倭国に素戔嗚尊信仰が誕生した弥生時代末期にこの伝説はまだ無かった筈である。

 

ところで私は、一旦朝鮮半島に立ち寄るも、その地には留まらずに、

結局は倭国に渡来した実在の人物を知っている。

 

それが秦の方士・徐福である。

 

徐福渡来伝説は朝鮮半島にもある。

 

徐福は紀元前219年の第一回渡航において、どうやら済州島に渡来したらしい。

 

その証拠に済州島には徐福渡来伝説があり、

済州島の三大瀑布(滝の意)の一つ正房(チョンバン)瀑布が西帰浦(ソギボ)にあるが、

徐福一行が滝の美しさに見とれ、しばし足を止めて眺めた後、おもむろに歩き出した。

その時、滝の岩肌に「徐市過此(ソブルクァチャ)」という字を刻んだのだが、

それが今も残っていることからこの伝説に信ぴょう性を与えているようだ。

「徐市過此」とは、徐福がここを過ぎた、という意である。徐市は徐福のことである。

 

ところが「徐市過此」の文字は現代では擦り減って、殆ど見えなくなり、現在残っている文字は、地元有志により石板上に再現されたもののようである。

 

因みにこの文字はよく解らない古代文字で書かれているが、

徐福の時代、中国では既に漢字が使われていたので、この文字は偽物とする説もある。

 

徐福が朝鮮半島に渡来後、その地を去った理由は、結局、

朝鮮半島には不老不死の霊薬があるという蓬莱山はなかったのだろう。

だが『史紀』によると徐福は朝鮮から、一旦故郷の斎国琅邪郡に戻ったらしい。

 

琅邪台で始皇帝に再会した徐福は、うまいこと言って、

再度始皇帝を騙して、紀元前210年、二度目の航海に出る。

 

そして行き着いた地は倭国であり、佐賀郡諸富町搦であった。

此の地は『史記』に「廣原平沢之地」と書かれており、

徐福はこの地で王と成り、秦国には二度と戻らなかったらしい。

 

そして、素戔嗚尊は出雲国に降臨し、新たなる素戔嗚尊伝説が始まるわけである。

 

乃ち、須佐之男命伝説の古い方が斎の方士・徐福の記憶であり、

新しい方が倭国大乱を起こした男王の記憶が混ざったものなのであろう。

 

 

 

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