吉野ヶ里遺跡の竪穴式住居

 

倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。

有屋室、父母兄弟臥息異處。

以朱丹塗其身體、如中國用粉也、食飮用籩豆手食。

其死有棺無槨、封土作冢。

始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。

已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。
 

(書き下し文)

 

倭地は温暖にして、冬も夏も生野菜を食す。皆徒跣(裸足)である。

屋内は部屋に分かれ、父母兄弟は臥息を異なる処にす。

朱丹(しゅたん)を其の身体に塗るは、中国で粉を用いるが如き也。

食飲は籩豆(へんとう)を用い、手もて食べる。

其の死に棺あれども、槨(かく)なし。土を封じて冢(ちょう)を作る。

死の始め十余日は喪に服し、その間肉は食べず、喪主は哭泣(こっきゅう)す。

他人は死者宅に就し、歌舞飲酒する。

已に葬られるや、一家を挙げて水に入り、体を洗い清める。

これは中国の練沐(れんもく)の如きものである。

 

(現代語訳)

 

倭国の地は温暖なり。

この話は倭地を儋耳・朱崖(何れも海南島の地名)と同じと見ていたからである。

帯方郡使来訪は夏と考えられ、暑い夏の倭国で温度・湿度は海南島と変わらなかった。

冬に生野菜を食べる話は倭人からの伝聞によるものと思われる。

確かに現在の日本でも冬に大根や菜っ葉などを生で食べており、

なんでも野菜を温めて食べる中国の風俗とは異なっている。

日本人は弥生時代から野菜サラダが好きだったのだろう。

皆裸足なのは、帯方郡使が夏に九州に来倭したからそうだったのだろうが、

勿論、夏の九州からは、北国の冬の話は解らない。

 

当時の竪穴式住居は狭いながらも、屋内が個室に別れていた。

弥生時代の家族は現代同様にプライバシーを大切にしていたようである。

朱丹を其の身体に塗るは中国で粉を用いるが如き、つまり化粧をすると言うことだ。

中国では現代同様、肌を白くする化粧だったが、当時の倭国では赤く染めていたようだ。

だが、朱丹は水銀で出来ており、弥生時代の人は肌が荒れていたはずである。

有機水銀つまりメチル水銀を体に取り込むと、所謂水俣病となるはずだが、

硫化した水銀を体に塗るだけなら、単に肌が荒れるだけだったようである。

 

食物を籩豆(へんとう)「高坏(たかつき)」に盛ったのは、現代の皿の感覚である。

潜水漁法の話からも解るように、当時の倭人は魚や鮑、蛤を刺身で食べていたようだ。

しかも当時の倭人は手でつまんで食べていたらしいと云うことは、

当時箸は使用されておらず、箸は後世に大陸から伝わったもののようである。

古墳時代、『記・紀』の箸墓記載からも解るように、箸が倭国に伝わっていたらしい。

 

その死には棺あれども、槨無し。つまり、当時の倭国の埋葬は質素であった。

その点、古墳時代の埋葬形式である前方後円墳では棺が槨に囲まれており、

卑弥呼時代、つまり弥生時代の倭国の埋葬形式とは異なるとする。

 

石棺の周りに作られた槨=石室

 

平原王墓の墓室 棺有れども槨なし 木棺は腐食し、遺体共々残っていない

僅かに遺体があった場所に遺体に塗られた朱の赤色が残っている。

 

倭国は二世紀迄、甕棺墓が使われており、三世紀に木棺墓が使われるも槨はなかった。

土を封じて作られた冢とは、多分円墳や方墳のような単純なものである。

つまり、倭女王卑弥呼の冢もたぶんその程度のものだろう。

前方後円墳は少なくとも三世紀末以降に次第に発展したものであろう。

 

『晋書』 卷三 帝紀第三 世祖武帝 炎 泰始二年(AD266)条

十一月己卯 倭人來獻方物 并圜丘・方丘於南・北郊 二至之祀合於二郊

 

泰始2年(266)11月  倭人、来たりて方物を献ず。
円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に併せたり。

 

私は台与の晋朝貢時の話を記したらしいこの文からも、

倭人が前方後円墳を作るようになったのは、まさにこの時以降だと考える。

台与の使わした使者は西晋で前方後円墳の祭祀を学んで帰ったのであろう。

だがその後、前方後円墳は倭国内で発達するも、本家の中国では消滅した。

 

人が死んだ始め十余日は喪に服し、その間喪主は肉は食べずに、唯号泣する。

他人(親戚や近所の者)はその間、死者の家に集まって、歌舞し、酒を飲む。

この状況は現代の日本の葬式の姿にも繋がるものである。

 

已に葬られるや、一家を挙げて水に入り、体を洗い清める。

これは中国の練沐「ねりぎぬ(絹)を着て水ごりする儀式」の如きものである。

 

 

 

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