【ネタバレあり】

ゲイル・キャリガーによる「英国パラソル奇譚」の2作目。

前作で人狼のコナル・マコンと結婚したアレクシアの次なる冒険譚、という趣。

冒険譚と言いつつも、前作同様、ラブロマンスの色合いは通奏低音として流れており、スチームパンク的要素はタイトルにもなっている飛行船だったり、なんといってもスチパンフェチ心をくすぐるのは「エーテルグラフ送信機」であったりする。

そのあたりももちろん魅力なのだが、やはりこのシリーズで重要となってくるのは、世界設定として人間(昼間族・反異界族)と人狼、吸血鬼、ゴーストたちが単に<人間対怪物>のような対立関係だけでない(もちろん対立もある)共存、という点だろう。そもそも前作でアレクシア(反異界族)とコナル(人狼)が結婚するという結末を迎え、いわば<異種交配>もありうる、という点が物語を魅力的に駆動させている。パート2の今作ではアレクシアの妊娠まで発覚するのだから、さて、人間と人狼との間にできる子どもというのはどういった存在なのか?がこの先気になってくるところだ。

 

2010年に書かれていることもあって、明確にフェミニスト・フィクションと呼ぶことも可能だろう。そこまでフェミニズム的に読解しなくてもよいだろうが、むしろ、SFという分野におけるオタク的想像力によるジェンダー/セクシュアリティ表象の自由をこそ見ることができるのではないか。19世紀における女性のジェンダー的立ち位置を踏襲しながらも、そこからの逸脱こそがスチームパンクとしての魅力であり、19世紀に書かれた19世紀の物語とはもちろん決定的に女性性の表象は異なっている。ジェンダー/セクシュアリティの多様さ、という正統的なフェミニズム的読みを促すというよりは、BL/GLというようなオタク・カルチャーが培ってきた非‐異性愛に対する萌えを含んだ視線が、自然とミックスされている。何をおいても今作で魅力的なのは男装のマダム・ルフォーとメイドのアンジェリクとの間の百合である。それが物語の核をなしているという指摘だけでこのレビューは十分かと思う。あとは、少し視点はずれるけれども、ダグラス・サークのメロドラマ映画に「ちょっとフランス風」(1949)というのがあるのだが、そこでのドタバタラブコメ感なんかを想起させたりもして、「フランス風」であることが英国人にとってどのようなオシャレ感なのか、ということを想像してみるのもまた一興かと。

 

※参考:ジェンダーSF研究会

 

 

 

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アヴリルと奇妙な世界(2015)

テーマ:

仏産歴史改変もの。

設定がもろに”蒸気”であるにもかかわらず、あるいはわたしがフランス産アニメにはとんと縁がなかったからかもしれないが、スチパンフェチ心をあまりくすぐられなかったのはなぜだろう。おそらくわたしのなかで、アニメでスチームパンクを享受するということが、日本のそれらのなかから受け取る諸要素に慣れきってしまっていることに一因があるかもしれない。

 

「アヴリル」という名前から、きっと国産アニメ的な美少女ヒロインを何の疑いもなく想定してしまっていたこともきっとあるだろう。「カバネリ」や「プリンセス・プリンシパル」を「和製スチームパンク(のアニメ)」としてすでに享受してしまい、そのイメージに誘われて見るならば、即座に見事にそうではないものと出くわすことになる。主人公のアヴリルが決して日本のアニメが長い時間をかけて醸成してきた「美少女」の像からはかけはなれていて、それでもきっと宮崎アニメに一番近いところにはいる女性像なのだけれども、そういうことだからわたしのなかに無意識に沈殿している「SF的ヒロイン像」とは違っていたことが、「ああ、自分は今スチームパンクを見てるんだ」という感覚との距離をもたらしてしまった、ということかもしれない。

 

海外のスチームパンク小説が邦訳されて出版されるときも、どこかしら日本のアニメの美少女像がその本の表紙に踏襲されることが多い。例えば、エリザベス・ベア「スチーム・ガール」にしろ、ゲイル・キャリガーの「英国パラソル奇譚」シリーズにしろ(こちらはコミカライズもあって、それもほぼ完全に”Manga”なタッチである)、日本語版の表紙は見事に”アニメ”である。日本でスチームパンクが享受されるとき、そうした「戦闘美少女」的な図像がおそらくマーケティング的にも求められてしまう、ということは少なからずあるだろう。

 

そうしたスチームパンクの「ヒロイン」へのジェンダー的な期待を本作は見事に裏切る。スチームパンクのアニメといえば「戦闘美少女」の「可憐さ」と「強さ」を兼ね備えた諸要素へのニーズが多くの観客のなかにあるカルチャーである、という前提へのオルタナティヴでもあるだろう。だからこそ、既存の「スチーム感」でわくわくするような感性が固着してしまっているわたしたちにとっては、ちょっとした肩透かしかもしれない。だからこそ、日本でのこの映画の宣伝にヒロインのクローズアップが周到に回避されているということには、日本のスチームパンク受容という文脈における文化的なジェンダー・イメージへの期待が見事に逆転された形で反映されている、といってよいのかもしれない。

 

だからこれは新しいフェミニスト・フィクションでもあるのであって、基本的にはアクションとして展開するものの、最後の最後で驚くべきSF的想像力に涙腺が緩む。わたしはこれはもうむしろスチームパンク版のモーパッサン「女の一生」でもあるような気がしてしまった。それも、抑圧に晒され続けてきた女性性をモーパッサンが結局はその被抑圧性をもひっくるめて「女」なのだと宣言したのとは正反対の「女の一生」の提示である。そうした意味でのスチームパンクの(主としてジェンダーからみた)「自由さ」の一端は、21世紀にはこのような形でもあらわれる、ということなのだ。

 

 

和製スチームパンク、と断言できるほどではないけれど、スチームパンク要素もほどよく含有したゾンビ・アクション。

タイトルにもなっている「甲鉄城」が主人公たちの拠点となる<蒸気機関車>であり、城=住居=移動手段=バトルフィールド、といった役割を劇中で果たす、という意味で根底的な設定にスチームパンク的世界観が据えられている。

 

しかしながら基本的にはゾンビ・アクションであり、時代背景を19世紀日本とすることで、日本刀と銃器の併存するバトルが可能になる。そしてゾンビものという観点からみるならば、オリジナルTVシリーズにはなかった、ゾンビが軍団(or軍隊)として<統率をとる>点が興味深くうつる。ロメロ・ゾンビの流れからすれば「ランド・オブ・ザ・デッド」(2005)のゾンビ表象に近い。もちろん、「ランド~」ほどゾンビの主体化とゾンビ同士の交感といったところにスポットが当てられるわけではないけれど、ゾンビものがシリーズとして続いていくために、敵手のありようにも進化と発達が求められた、ということではないだろうか。

 

特筆すべきは恋愛/ラブコメ要素が自然と挿入されている点で、これは実写ゾンビ映画ではなかなかお目にかかることのないシチュエーションではないか。アニメであることにこそ備わる<不自然の自然化>としてのラブコメ挿入がそのままカタルシスへと直結している。

加えてエンドロールではエンディングテーマに合わせて登場人物勢揃いでのきわめて祝祭的なダンスシーンが用意されており、北野武「座頭市」(2003)でのタップダンスを想起させる。もしくは「鴛鴦歌合戦」(1939)や「ドドンパ酔虎伝」(1961)といった、ハリウッドへの憧れを原動力とするミュージカル時代劇的なお遊びの片鱗を見て取ってもよいだろう。サムライの生きた時代にタップダンスが存在するはずもなく、そして本作でも19世紀ではなかろう踊りが躍られるように、時代考証など無視してエンタテインメントの諸要素をとにかくミックスしてしまい、結果として歴史改変ものに接した時のような感覚を喚起させる点も、スチームパンク的想像力にとって欠かせない一要素であるはずだ。