令和8年4月5日
平和をつくり出す人
仙台キリストの教会礼拝説教 
細井 実
新しい年度が始まりました。仕事や学校では今月から2026年(令和8年)度がスタートするわけです。この教会も年度単位で予算や事業計画を立てています。
世界は不穏な動きに支配されています。戦後つくりあげてきた、世界的な戦争を防ぐための基本的なルール、常識や理性によるルールが、限られた為政者の無知と傲慢による裏切りによって侵されています。いったい世界はこんなにも脆かったのかと唖然としています。
今年の1月 有名な進学校である灘中学校の入試門題が話題となりました。SNS で先行し、あとから新聞等が取り上げたようです。グーグルで検索してみると新聞の記事をいくつか見ることができます。入試問題も写真なら見ることができます。
こんな入試問題です。写真から書き起こしました。

次のA・B は、2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です。これを読んで、後の問いに答えなさい。
Aの詩は省略します。

B  おなまえかいて  ゼイナ・アッザーム 原口昇平訳

あしに おなまえかいて、ママ
くろいゆせいの マーカーペンで
ぬれても にじまず
ねつでも とけない
インクでね

あしに おなまえかいて、ママ
ふといせんで はっきりね
ママおとくいの はなもじにして
そしたら ねるまえ
ママのじをみて おちつけるでしょ

あしに おなまえかいて、ママ
きょうだいたちの あしにもね
そしたらみんな いっしょでしょ
そしたらみんな あたしたち
ママのこだって わかってもらえる

あしに おなまえかいて、ママ
2ママのあしにも
ママのとパパの おなまえかいて
そしたらみんな あたしたち
かぞくだったって 3おもいだしてもらえる

あしに おなまえかいて、ママ
すうじはぜったい かかないで
うまれたひや じゅうしょなんて いい
あたしはばんごうになりたくない
4あたし かずじゃない おなまえがあるの

 あしに おなまえかいて、ママ
ばくだんが うちに おちてきて
たてものがくずれて からだじゅう ほねがくだけても
5あたしたちのこと あしがしょうげんしてくれる
にげばなんて どこにもなかったって

ガザでは、自分や子どもが殺されても身元がわかるよう、子の名前をその足に書くことにした親もいる。-2023年10月22日CNN報道

問1、    問2はAに関する問いなので省略します。
問3 下線部2「ママのあしにも/ママのとパパの おなまえかいて」とありますが、この時の家族の状況はどのようなものですか、答えなさい。
問4 下線部3(おもいだしてもらえる)とありますが、どのような人が「おもいだ」すのですか、答えなさい。
問5 下線部4「あたし かずじゃない おなまえがあるの」に込められている思いはどのようなものですか、答えなさい。
問6 下線部5 「あしがしょうげんしてくれる」とは、どうゆうことですか、答えなさい。

以上です、小学校6年生が、この問題を見て、何を感じ、何を理解したか、端的に問うています。
出題者の意図は
「社会の入試問題はないが、社会の問題や、いま起こっている出来事とか、そういったことに幅広い興味を持った受験生に来ていただきたいと思い出題した」(2026年1月23日(金)  news23 TBS テレビ)とあります。
確かにガザで起こっていることは社会の問題であり、子どもであっても、日頃から世界の様々な出来事に関心を持たなければならないという、灘中学校の教育に対する、それは学校だけの問題ではなく、日頃の家庭での育て方や友人との関係等も含めて、問題提起なのかもしれません。

問題では「パレスチナで起きていること」と言っています。
出題者は受験者がこの言葉から、実際に起こっていることを知っているのか、あるいは「詩」の言葉からたどり着けるかも試しているのでしょう。
状況を少しでも知っていて、多くの子ども達が殺戮されていくことを知らせる映像を見たことがあるならば、冷静に文字を追うことができないような詩です。
明日、いや今と言う瞬間が過ぎ去ったなら直ちに、爆弾がさく裂し、殺されるかもしれない、逃げることのできない運命にこの子は向かい合っているのです。いや、運命と言ってはきれいごと過ぎるでしょう。殺戮する側が明らかであり、それが為政者の意思に基づいたものである限り、殺意の在る殺人であり、逃げることのできない殺人者の支配の下にあるということです。そのような支配に向き合っているのです。
その時子どもは考えるのです。仮に爆弾で身体が切り裂かれても、塵尻になったとしても、私は私だと。たとえ短くとも私は私として生き、私として死んだのだと、私として殺されたのだと。
そして更に考えるのです、私が私であることを証明するのは、私の名前なのだと。
死した後も、一人の人間としてここに存在し、息をし、食事をし、遊び、家族や友人と名前を呼び合い合ったことを、思い出して欲しい。
名前は、人間としての尊厳、価値の証であり、誰にも奪うことのできない、殺されても失われることのない私の印なのだ。
だから、冷たい躯になったとしても、私であることがわかるように、足に名前を書いて欲しいと子どもは訴えるのです。

この詩の作者は、シリア生まれでアメリカ在住の詩人です。
先月26日に配信された記事にこのような記載がありました。
ゼイナ・アッザームさん(69)は、2023年10月にイスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘が始まった直後、悲劇的なニュースに接した。「ガザでは空爆で殺されても身元が分かるよう、親が子どもの足に名前を書いている」。数日で詩を書き上げ、自ら感じた絶望的な恐怖を表現した。
パレスチナ難民の親の下、シリアで生まれた。10歳のころから米国に住む。ヨルダン川西岸は何度も訪れたことがあるが、厳しい立ち入り制限のあるガザ訪問は過去に1度。いったい、戦時下の子どもは何を感じ、どう理解しているのか―。彼ら、彼女らの声を代弁するため、子どもの目線で詩を書いた。
 「足」に注目した理由については切なそうに、こう説明した。
「ガザが絶望の極みにあった証しだ。親からすれば無力さと深い苦悩、悲嘆の行為だっただろう」と思いをはせる。「足は本来、歩いたり、走ったりするためのものだ。戦争下でいえば、足は逃げるためのものだろう。でも(イスラエルによって閉鎖された)ガザでは、どこにも逃げられない。足は本来の役割じゃない『証言』を背負わせられる」。「ガザは軍事占領されてきた。今起きているのは紛争でなくジェノサイド(集団殺害)だ」
(3/16(月) 10:32配信47News)

 作者は戦場にある子どもではありませんでした。戦禍に晒されている子ども達には自らの境遇や嘆き、更には、嘆きを超える希望を語る言葉を奪われているのです。語りたいと思っても同じく戦禍の下にある大人たちには聞く余裕は無いでしょう。語ったとしても、炸裂する爆弾の音がかき消してしまうでしょう。書き残そうと思っても紙と鉛筆は近くにはいないでしょう。仮に書き終えたとしても、紙は裂け、燃えてしまったでしょう。作者は子どもの声、語ろうとする言葉を、子どもの立場に立って語ろうとしたのです。だから、この詩は、語ろうとして、語ることができない、許されない、子ども達の声なのだと思うのです。ガザは、残虐な虐殺の記憶が残されたまま。きっと足に名前を書いてもらった子ども達の亡骸が埋もれたまま、名前を書いてもらう時間や余裕さえ奪われて、不明のままの子ども達の亡骸、親を先に亡くし名前を書いてもらうことができずにいた子どもたちの亡骸も埋もれたまま、瓦礫の廃墟となっています。
そして、今同じ悲劇がウクライナでは4年も続き、イランでは2月から始まっています。ウクライナの子ども達も、イランの子ども達も、更にはスーダンや世界のいたるところの紛争地で、子ども達は親に「あしにおなまえかいて」と訴えているのです。
戦争を遂行したいという為政者やその指示者を除けば、多くの人々はこころを痛め、戦禍が一日でも早く収まるよう祈っているのだと思います。しかし、事態は悪くなるばかりです。

聖書をお読みします。
マタイによる福音書5章 9節
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、/彼らは神の子と呼ばれるであろう。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、/天国は彼らのものである。(マタイによる福音書5章 3節)で始まるいわゆる山上の垂訓の7番目の教えの言葉です。平和をつくり出すひとは、イエスと並んで、イエスのように「神の子」と呼ばれる、だから「さいわい」であるというのです。
それまでの6つの教えは、神に導かれ「天国を得ること」や「なぐさめられこと」、「地を受け継ぐこと」、「飽き足りること」、「あわれみをうけること」「神を見ること」ができるようになるから「さいわい」であると言っています。
それは「彼ら」が、ということは、教えを聞いている人自身が、自分自身がということですが。自分が、自分という人間と言うか存在が、そのようなことを得られるから、そのようになることができるから「さいわい」だと言っているのです。
それに対して、「神の子と呼ばれる」ということは、「呼ばれる」のであって、彼ら自身、がそのようななるということではなく(無論神の子にふさわしい人間であることが前提ですが)、彼ら以外と言うことは自分以外の人々からそのように言われることになるということです。そこには他者の目線、他者によって感謝され、慕われ、信頼されるということが示唆されています。
また、他の教えは、自分と言うやはり人間と言うか存在が「こころの貧しい」「悲しんでいる」「柔和である」「かわいている」「あわれみ深い」「心の清い」という状態にあること。心がそうあること、あるいはそうあると思っていることが「さいわい」となると言っているわけです。         
しかし「平和をつくり出す」と言うのは、自分自身の状態を指しているわけではありません。(無論自分自身が「平和」を、心に「平和」を得ていなければできないことではあるでしょうが。)まさに「つくり出す」のであって、彼らが、と言うことは自分が他者に働きかけ、他者を導いて、平和な状態をつくり上げるということです。やはり他者の目線がそこには示唆されているのです。
それは自分自身が「こうあらなければ」と平和を願うだけではなく、「つくり出す」ために他者に対して働きかけ、行動しなければならないということです。イエスが山上から民衆にそのことを教えているのです。
イエスの時代、ユダヤの地は、ローマ帝国が支配していました。所謂パックスローマと言われたように、表面的には大きな戦争や反乱もない時代でした。しかしそれは帝国による軍事的覇権を前提とする「力による平和でした」。まさに今イランに戦争を仕掛けているある国の権力者、為政者が成し遂げようとしている、戦争を仕掛けて成し遂げようとしている、彼にとっては理想的な時代かもしれません。しかし、それは暴力によって民衆を支配し秩序を生み出している、偽りの平和にすぎません。
イエスが宣教活動によって批判したように、様々な差別や抑圧に、とりわけ貧しい人が晒され苦しんでいました。決して「平和」な時代ではなかったのです。
山上の垂訓では、はじめの8っつの教えは「○○の人はさいわいである、○○だから。」と言う言い方で、私たちがさいわいとなるためにどうあらねばならないかを説いています。今のべたように、そのうち6つ目の教えまでは、自分自身がどうあらねばならないかを説いています。でも7つ目は、他者が介在しています。他者に対してどのように行動しなければならないのか(平和をつくり出す)を教えているからです。
8つ目の教えも他者が介在しています。
マタイによる福音書5章 10節
義のために迫害されてきた人たちは、/さいわいである、/天国は彼らのものである。
ただこの教えは、7つ目の教えとは逆に、他者の側が行なうこと(迫害される)が説かれています。
これはどういうことでしょうか。
3節が(こころの貧しい人たちは、さいわいである、)「天国は彼らのものである。」で終わっているようにこの10節も「天国は彼らのものである。」と言う言葉で終わっています。だとするならばこれははじめの7つの教えが、8つ目の教えへと収斂される、10節がそれまでの教えに従うことでえられる最も本質的な「さいわい」について教えているのではないか。
同じように7つ目の教えである「平和をつり出す」といことも、前の6つの教えが修練したもの、それまでの6つの教えに従うことによって、はじめて従うことのできる教えではないかと。こう思うのです。
平和のため、義のために他者への働きかけ、それのゆえに他者から神の子と呼ばれ、それ故に迫害されるのだ。このことこそが「さいわい」の源である。これが、この8つの教えの構造であり、結論だと思うのです。

「平和をつくり出す」ためには、自分自身がまず初めに、平和へと導くことのできる人間、平和をかたりうる存在とならなければならないでしょう。平和とは、あらゆる人が差別なく、お互いを信頼して、平安を心に得て生きていけることを意味しているからです。
(暴力による支配の平和は、お互いを信じることのできない、暴力への恐怖と相互の不信が支配する平和です。)
パウロはこう述べています。

コリント人への第二の手紙 13章 11節
最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。

パウロは「全き者となりなさい。」と言っています。 
そこでこう思うのです。
まず自分自身が6つの教えに従って生きること。そうすることで7つ目の教えの「平和をつくり出す」人になることができるのだと。
イエスが、聴取の一人ひとりに教えた私たちに生きる道、「こころの貧しい」「悲しんでいる」「柔和である」「かわいている」「あわれみ深い」「心の清い」人となる道を生きなければならない。そうすることで「平和をつくり出す」人となることができるのだと。
 私たちはなぜ 今ここに生きているのか。この不安と不信に怯え、不条理と不如意に涙し無残な暴力を眼にしなければならいのか。

コロサイ人への手紙1章19節、20節
神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

私たちはイエスの十字架での犠牲によって、神の前での平和を与えられているはずなのです。
しかし現実はそうはなっていません。いやだからこそ、イエスは、神の教えに従い「平和をつくり出す」人となるようにと私たちに教えているのです。
私たちが存在する意義は、目の当たりにしている現実に対して「平和をつくり出す」人となることです。
同じ山上の垂訓でこうも説いています。

マタイによる福音書/ 5章16節
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

私たちは、自分自身が信仰に従い、ただ忠実に内向して生きていてはいけないのです。他の人びとの前を照らさなければならないのです。そのことで「平和をつくり出す」人とならなければならないのです。

同時に、「平和をつくり出す」ということは、義に従うことであり、偽りの平和の偽りであること暴き出すことです。それゆえ、偽りの平和を平和と言う人、言い募る人々(権力者や偽りから利益を受けている人々)からは差別や迫害を受けることになるのです。

では、どうすれば良いのか。ここでやはりこの聖書の言葉に私は帰るのです。

マタイによる福音書22章 37節から39節
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

「隣り人を愛すること」それが「平和をつくり出す人」となることなのです。
権力者や為政者にもこう言わなければなりません。憎しみや怒りや私欲によって行動してはならない。「あなたの隣り人を愛せよ。」と。

「おなまえかいて」と言う詩を読んで、問題にこたえようと苦戦した受験生は何を感じ、どう思ったのか。
ガザでの 自分たちと同じ年ごろの子こども達、あるいは妹や弟の様な幼い子ども達の境遇と心情に理解が至ったのかは良く分かりません。まだ早すぎるという意見もあったようですが、同世代として考えることにこそ意味があると思います。
そして、これから、「おなまえ」を書かざるを得ない現実に涙し、怒るだけだは無く、この世界の「平和をつくり出す」人へと成長して行って欲しいと思います。