- 前ページ
- 次ページ
FACEBOOKと、LINEで忙しくて、こっちは放置状態。
最近変った事といえば、スマフォのサブ機をタブレットに替えたこと。
iPhoneやiPadは大嫌いなんで、Lenovoの8インチのに。
最近変った事といえば、スマフォのサブ機をタブレットに替えたこと。
iPhoneやiPadは大嫌いなんで、Lenovoの8インチのに。
Amazonで、厚目の液晶保護フィルムと、ケースを買って使ってます。
映画は勿論見ましたよ(*^^)v
先日からドラマ化されてるので・・・。

長男は戦死して立派な墓が立ってます。
次男の父は、満州の航空基地で通信士をしてました。
私は軍事マニアでメカマニア、特に航空機や銃、搭載武装、軍艦、無線には詳しいので、第一夜も、第二夜も、見てたら突っ込んでばっかりでしたが…(^^;)
零戦の型式は、量産型としては、21型・22型・32型・52型・64型等があり、開戦から敗戦まで日本海軍の主力戦闘機であり続けました。(あり続けなければならなかった)
生産機数は全ての日本機中最大の 10,370機で、2位で陸軍の戦闘機として有名な一式戦闘機「隼」の5,750機と比べても、いかに大量に生産されたかが判ります。
21型はその前に少量生産された11型の改良型で、真珠湾攻撃に加わった機種です。零戦の場合その型式は一桁目がエンジン形式で、二桁目が機体の形式で表記されています。従って21型は、機体は11型の改良タイプで、エンジン形式は11型同様 中島製「栄」12型を装備していた事になります。「栄」は中島飛行機が開発した、空冷星形複列14気筒の当時としては傑出したエンジンでした。零戦の優れた性能の一つはこの「栄」を除いては語ることは出来ません。その小さな外形・優れた燃料消費率・高出力(970HP) 等です。このエンジンの性能にプラスして、機体設計の素晴らしさにより、開戦初期には世界一の性能を誇る事が出来たのです。
零戦の機体設計を担当したのは、三菱の 堀越二郎技師 で、当時住友金属が開発した「超々ジュラルミン」を使用し、機体重量を極限まで低減させ、優れたエンジンとの相乗効果で、運動性能・上昇力・航続距離等々世界標準を大幅に上回り、開戦初期の戦果の多くが零戦によるものと言っても過言ではないでしょう。ただし、高性能の為の犠牲も多くありました。操縦席には防弾鋼板も無く、防弾は風防全面の防弾ガラスと座席の後方上部のヘッドレストだけ。主翼の燃料タンクにも防漏装備は無く、アメリカ機のような防弾ゴムもありませんでした。
アメリカは不時着した零戦21型を徹底的に研究し、対抗できる新機種をどんどん開発し、速度・エンジン出力に勝り、火力(機関銃の口径、数、装弾数)に勝る戦闘機(ヴォート F4U-1 コルセア、グラマン F6F-3 ヘルキャットなど)を多数登場させました。
それなのに日本海軍は零戦に変わる新機種を量産できないまま、エンジンの出力アップ、武装の強化等の小改良を続け、部品数が多くて生産性や整備性の悪い零戦を敗戦まで使い続ける事になってしまったのです。
陸軍が、一式戦「隼」(軽戦)、二式戦「鍾馗」(重戦)、三式戦「飛燕」(液冷高速戦)、四式戦「疾風」(高出力機)、「五式戦」(飛燕の空冷化)などを用途に合わせて使用したのとは対象的です。
あと、特攻を全面的に命令していたのは、帝国海軍だけです!!
陸軍では、敵地での燃料切れや重傷など余程でないと突っ込みません。
終戦まで東京へ爆撃に来るB-29の大編隊を迎撃していたのは、調布飛行場の25歳の小林隊長率いる244戦隊の三式戦「飛燕」や、震天制空隊の二式戦「鍾馗」、二式複戦「屠龍」など、陸軍だけでした。
機関銃の弾が切れたら、自らの機体で体当たりし、主翼でB-29の垂直尾翼を切ったり、胴体に当たったりして、操縦者は落下傘で戻ってまた別の機体で出撃するという、勇猛果敢な部隊でした。
かたや海軍は「零戦」では無理で、「紫電改」は稼働率が低く、唯一「雷電」だけが飛んでたくらいです。
先日からドラマ化されてるので・・・。

若い人達や、年配でも当時小学校とかだった人は是非見てほしいですね。
うちの父方の三兄弟は戦争に行きました。長男は戦死して立派な墓が立ってます。
次男の父は、満州の航空基地で通信士をしてました。
私は軍事マニアでメカマニア、特に航空機や銃、搭載武装、軍艦、無線には詳しいので、第一夜も、第二夜も、見てたら突っ込んでばっかりでしたが…(^^;)
ゼロ戦 の正式名称は、零(レイ)式艦上戦闘機です。「ゼロファイター」は、アメリカ側の呼称です。旧日本海軍では武器の呼称を、皇紀(神武天皇の即位を元年とした日本独自の年号)
2589年より、その下二桁の数字を取り、例えば2597年採用の武器(戦闘機)を97式と命名する事になりました。零式艦上戦闘機は、皇紀2,600年(昭和15年)に型式認定された戦闘機なので、零式と命名されたのです。ちなみに日本海軍には、96式艦上戦闘機・97式艦上攻撃機・99式艦上爆撃機などがあります。今でも飛んでる ダグラスDC‐3 ダコタ 旅客機をライセンス生産した輸送機も、零式輸送機となりました。昭和17年採用の飛行艇が有名な「二式大艇」(二式大型飛行艇)です。零戦の型式は、量産型としては、21型・22型・32型・52型・64型等があり、開戦から敗戦まで日本海軍の主力戦闘機であり続けました。(あり続けなければならなかった)
生産機数は全ての日本機中最大の 10,370機で、2位で陸軍の戦闘機として有名な一式戦闘機「隼」の5,750機と比べても、いかに大量に生産されたかが判ります。
21型はその前に少量生産された11型の改良型で、真珠湾攻撃に加わった機種です。零戦の場合その型式は一桁目がエンジン形式で、二桁目が機体の形式で表記されています。従って21型は、機体は11型の改良タイプで、エンジン形式は11型同様 中島製「栄」12型を装備していた事になります。「栄」は中島飛行機が開発した、空冷星形複列14気筒の当時としては傑出したエンジンでした。零戦の優れた性能の一つはこの「栄」を除いては語ることは出来ません。その小さな外形・優れた燃料消費率・高出力(970HP) 等です。このエンジンの性能にプラスして、機体設計の素晴らしさにより、開戦初期には世界一の性能を誇る事が出来たのです。
零戦の機体設計を担当したのは、三菱の 堀越二郎技師 で、当時住友金属が開発した「超々ジュラルミン」を使用し、機体重量を極限まで低減させ、優れたエンジンとの相乗効果で、運動性能・上昇力・航続距離等々世界標準を大幅に上回り、開戦初期の戦果の多くが零戦によるものと言っても過言ではないでしょう。ただし、高性能の為の犠牲も多くありました。操縦席には防弾鋼板も無く、防弾は風防全面の防弾ガラスと座席の後方上部のヘッドレストだけ。主翼の燃料タンクにも防漏装備は無く、アメリカ機のような防弾ゴムもありませんでした。
アメリカは不時着した零戦21型を徹底的に研究し、対抗できる新機種をどんどん開発し、速度・エンジン出力に勝り、火力(機関銃の口径、数、装弾数)に勝る戦闘機(ヴォート F4U-1 コルセア、グラマン F6F-3 ヘルキャットなど)を多数登場させました。
それなのに日本海軍は零戦に変わる新機種を量産できないまま、エンジンの出力アップ、武装の強化等の小改良を続け、部品数が多くて生産性や整備性の悪い零戦を敗戦まで使い続ける事になってしまったのです。
陸軍が、一式戦「隼」(軽戦)、二式戦「鍾馗」(重戦)、三式戦「飛燕」(液冷高速戦)、四式戦「疾風」(高出力機)、「五式戦」(飛燕の空冷化)などを用途に合わせて使用したのとは対象的です。
あと、特攻を全面的に命令していたのは、帝国海軍だけです!!
陸軍では、敵地での燃料切れや重傷など余程でないと突っ込みません。
終戦まで東京へ爆撃に来るB-29の大編隊を迎撃していたのは、調布飛行場の25歳の小林隊長率いる244戦隊の三式戦「飛燕」や、震天制空隊の二式戦「鍾馗」、二式複戦「屠龍」など、陸軍だけでした。
機関銃の弾が切れたら、自らの機体で体当たりし、主翼でB-29の垂直尾翼を切ったり、胴体に当たったりして、操縦者は落下傘で戻ってまた別の機体で出撃するという、勇猛果敢な部隊でした。
かたや海軍は「零戦」では無理で、「紫電改」は稼働率が低く、唯一「雷電」だけが飛んでたくらいです。

















