メンバーはそれぞれの日常へとしばし戻ったのも束の間、既に次々回公演「はみだしっ子」の製作発表準備や、次回公演「卒塔婆小町」の稽古が始まっています。
さてさて、前回コアラチームを振り返って記事を終えてしまいましたので、今回はカンガルーについて徒然と書きたいと思います。ちょっと懐かしくなるタイミングになってきてしまいましたが、お付き合いいただければ嬉しいです。
カンガルーチーム。
主軸となるクリント、テオ、レップにそれぞれ岩崎大、船戸慎士、松本慎也。ウォルシュ先生に緒方和也が入ったこのチーム。
メンバーを見れば一目瞭然ですが、コアラチームとは全く趣の異なったすもぽぴになりました。
クリントを演じた大さん。
劇団内外を問わず高身長を生かした豪快な役を務めることが多い大さんですが、久々のスタジオライフ出演となったデイジーのシビル、続くエッグ・スタンドでのマルシャンと、その役の振り幅に改めて驚かされました。
大さんはスタジオライフの中ではきっと誰よりも純粋です。本当に子供のような純粋さを持ったまま大人になったという感じで、かつ信じられないくらい優しい。そして芝居に対しては真摯な姿勢を決して崩さない人です。
大さんのクリントは、そんな大さんの個性が色濃く反映された本当に純粋な少年でした。
作品中に起きる出来事たちをただ真っ直ぐに受け止めて、受け入れて、そこに対峙していく。
離れて生活しているパパへの想い。
そんな中恋人を作って自分と引き合わせようとするママへの葛藤。
マリアが転校してしまい、一人で学校に行かなければならない状況への苦悩と軋轢。
序盤からこういった身の回りの出来事を一つ一つ丁寧に受け止め、気持ちを繋いでいく。
だから、大さんのクリントは序盤から感情の振り幅が大きく、ただママに縋る姿を見ているだけでも胸に来るものがありました。
でも、さすが大さん、それだけじゃなくて。
ベースとして丁寧に作品に置かれたクリントの状況を追いながら、大さんならではの、一見「クリントらしくない」大胆なキャラクターを随所に放り込んでいきます。
その純粋な少年のラインと時折見せる大胆な表現が、このすもぽぴが「大人が子供を演じている」という二重構造と合致して、ただクリント少年を全うするだけだとやはり重たくなってしまうところを、気持ちはそのままに笑いに昇華させる。そういった表現になっていました。
これって、実は凄いことで、ベースとなるクリントの性格やその時々の心持ちを本当にしっかり捕まえていないと、ただの悪ノリになってしまいます。大さんの場合は常に「クリントの気持ち」のまま「クリントらしくない」行動に敢えて踏み込む、という道を選んでいました。そして、常にクリントの想いからブレずにいたからこそ、場合によってはネタ入れにも見えるような場面の直後でも、一瞬でシリアスな空気に引き戻すことができる。
これを僕が一番感じたのが、「かたじけない」でした。
ブレナンと学校へ行く行かないの場面で、ブレナンのお遣いに走りお駄賃を貰った際のアドリブです。
直後船戸さんのブレナンが
「いきなりぶっこむねぇ」
と返し、座って見ている僕らは正直
「マズい、戻せるか?」
という空気になりました。
というのもこの場面は、作品におけるクリントの成長過程を示すとても重要な場面。素ネタを放り込むことで作品意図がズレてしまうリスクが大きいところだったからです。
しかし、
「僕、学校へは行かないよ」
大さんのクリントのこの一言でスッと作品世界に戻ったのです。ただ台本に戻った、ではなく、舞台上、客席を含む劇場の空気がたったこの一言でシリアスな作品世界の空気に一変したのです。
僕は盆の後方から眺めながら
「大さんマジすげぇ」
と心の中で感嘆していました。
自ずと船戸さんもブレナンに戻り、結果として笑いを挟みながら作品意図に沿った形のシーンが成立したのです。
大さんの大胆な舞台表現は、繊細で緻密な役作りがあって初めて成立しているんだなぁ。そんな風に思います。
さて、もう一人の我が息子、船戸テオ。
これがまたまた笠原さんに負けず劣らずのやんちゃっぷりでありました。
船戸さんのテオは、印象としては少し幼くて、強がりきれていない感じ。好き勝手やってるように見えて、実は甘えん坊で寂しがり屋の部分が透けて見える、そんな子供でした。
ママと3人のシーンも、僕と二人のシーンも、言葉や態度でやんちゃな素ぶりや反抗的な態度を示すのですが、でもどこかでちゃんと親の様子を気にしていて、「ちゃんとしなきゃ、やりたくなくてもやらなきゃ」というような、子供なりの葛藤とちゃんと対峙している子でした。
そしてそれが、「そうしないと怒られる」といった保身的な理由ではなく、ちゃんと何が正しくて自分がどうあるべきかがわかっていて、ただそこに向かう勇気が足りない自分をなんとかしようとしている。親として接する中で、ホントに一生懸命生きていることが痛いほど伝わってきました。
それでいて、パパと接するときは無防備に甘えてくるので、普段ガンバろうとしている姿を目にしている分なおのこと可愛く見えてしまうのです。
それにしても、体格はホントにどっちが親なのかわかりませんでした(笑)
初登校のシーンで船戸テオを抱き締めるくだりでは、「親子にはちゃんと見えてるのだけど、パパがテオにぶら下がってるように見える」とも評され、やってる方としては全く違和感なかっただけに驚いた記憶があります。
そう、不思議なもので、やってる僕ら自身は全く違和感ないんです。舞台上で僕は船戸さんを5歳のテオとしてしか認識していません。大きいとかゴツいとかオッさんとか全くないんです。確かに5歳児にしては大きいですが、テオはそーゆー子なんだと思うとそれで納得、というか慣れるというか。「船戸さんホントに可愛いですよ」と言うと、船戸さん含め誰もが「マジで?(笑)」と疑ってくるのですが、ホントに可愛い。むしろ何故息子の可愛さがわからないんだとプンプンしてしまうくらいです(笑)
甘えん坊な癖に、ホントは弱っちぃくせに、
一生懸命強く生きようとしてる健気で可愛い子でした。
きっと、凄く優しくて、ちょっとお馬鹿な、
船戸さんみたいな大人になるのかな、なんて思います。
そしてヒロイン、まつしんレップ。
客演で稽古合流が遅れたまつしんですが、合流後一週間足らずで通し稽古という環境の中、急ピッチで三ヶ国語の台詞をインプットするというところからスタートしました。
うさぴょんや僕が日本語での稽古からギリシャ語へ移行したときに恐ろしく苦労したにも関わらず、まつしんはギリシャ語もクメール語もまるで日本語の台本を覚えているかのように流暢に出てくる。
「最初の一文字出なかったら出ませんね、日本語だったら適当に似たようなこと言えるんですけど、さすがに外国語だと言い換えられないです」
とまつしんは話していたけれど、最初の一文字が出てこないまつしんというのが既に想像できない域である。
そして、今回のまつしんレップで一番僕が素敵だと感じたのが、まつしんが決して「5歳児を演じなかった」こと。
チーム問わず、5歳の子供役に就いたキャストはみな、いかに5歳児たるかという部分を役作りにおいて少なからず重きをおき、取り組んでいました。そんな中、たぶんまつしんだけがそこを拾わなかったのです。
まつしんが選んだのは「ただレップであること」だけだったのだと思います。
実は、台本上5歳児という設定がある以上、そこの表現をいかにしようと5歳児であることは揺らぎません。勿論見た目や台詞回し、動きで「5歳に見えない」と認識されてしまう可能性もあります。なので、このまつしんの挑戦はリスクも高いものであり、かつ「ただレップとして生きれば大丈夫」という確信がなければなかなか実現できません。
結果としてまつしんはレップという少女をとても感受性の強い、また物事についての思慮をしっかり持ち、目の前に突きつけられた状況と正面から対峙して立ち向かえる強さを持った人物として描き出していきました。
子供を演じていない故に、まつしんのレップはダイレクトに心の動きが見ている僕らに飛び込んできました。そして、彼が内包している「レップが5歳である」という事実は揺らぎなくそこに存在している。
だから僕には、様々な葛藤と対峙する彼の姿が本当の意味でリアルに映り、かつ「5歳の少女がこんなことを考えるなんて」「今どんな想いでここにいるのだろう」と想いを馳せずにはいられなくさせる魅力があったような気がします。
そして、ことカンガルーチームに於いてはこのまつしんの存在の仕方がそのままチームの空気にも繋がり、賑やかなシーンの中でもレップの想いが浮上し、またレップが一人舞台上に残されるとそれまでと空気が一変するような、ある意味支配力のようなものを持っていた気がします。
きっとまつしんのことだから、コメディタッチに描かれるこの作品、油断すると危ないと認識していたんだと思います。そして、何があっても自分の軸がブレなければなんとかできる。そんな風にも考えていたんじゃないかなぁ。
それでいて、本人も遊べるところはガンガン遊んでいる。だからこそその「自分の軸がブレなければ」という部分も変に周りにプレッシャーを与えることなく存在できる。
今更まつしんに先輩面するのもどうかと思いますが、なんて視野の広い役者に育ったのだろうと正直圧倒されました。
「文句なしのヒロインだった」
公演ツイッターで僕が彼をそう評したのは、そんな理由だったりしたのです。
そして、カンガルーチームの屋台骨を支えていたとも言えるのがおがっちこと緒方和也のウォルシュ先生。
久々に共演して、なんてフットワークの軽い、適応力の高い役者なんだろうと改めて思いました。
おがっちは普段からいい意味でいい加減。
だけど本当はすごく思慮深く、また責任感も強い。でもそれをあまり表には出さないタイプ。
ウォルシュ先生もおがっちの個性が乗っかり、思慮に富んでいながらも小気味好いリズムで物語を進めていく素敵なストーリーテラーであり、また子供たちに対しても押し付けることのない愛情に溢れていたような気がします。
現実でもそうだと思いますが、すもぽぴに於いても子供たちは自由で、また脈絡のない行動が頻出するのが日常でした。おがっちはそれを全部見逃さず、スピーディに拾って拾って、かつ物語が大切にする場面を決して疎かにせず丁寧に紡いでいました。おがっちが初めてスリーメンに挑戦したときの、その日その時のお客様含めた劇場の空気に日替わりで対応していたあの感じに少しだけ似ていて、かつ今回は大人の女性という役の中でそれを実現している。そんな印象。
数年僕より後輩ではありますが、僕にはできないこと、あるいはできたとしても相当苦労するだろうというのとをサラリとやってのけている。
そして、おがっちのウォルシュ先生は、これはおがっちという役者の特徴でもあるのだけれど、
「決して台詞で勝負しない」
これがすごい。
ここいいとこだよなぁとか、重要だなぁと思うと、普通役者は自然とその台詞に重きを置いた表現になります。それも間違いじゃなくて、作品を実現するために必要なことです。
でもそこをおがっちはそういった部分こそ、さらっと、日常的にやる。でも、そこにおがっちがベースで持つ役の想いや戯曲の解釈が根幹に乗っかっているので、さらっと、日常的に発された言葉の中に、そこに込められた想いが浮上してくる。
これがまたまつしんのレップとの相性が抜群でした。まつしんの的確で丁寧な感情表現に対して、それを受け止めるウォルシュ先生が自己の想いを表現し過ぎると、すもぽぴというポップな作風に於いてはそこだけ重たくなり過ぎる。極端な言い方をすれば「お涙頂戴」のシーンになってしまう。でもおがっちは相手の想いを全部受け止めながらも、自分の想いを決して押し出さない。想いはただ、持っているだけ。
ショー&テルでレップのママのくだりでその想いを受け止めるおがっちのウォルシュ先生は、レップへの想いだけにただ始終し、決して自分の想いに入り込まなかった。でも、言葉の端々やちょっとした表情に先生の想いが零れ出て、それが逆に見ている僕らの琴線にそっと触れてくる。
このシーン、おがっちは客席に背を向けるまで決して泣かなかった。後ろから見ている僕らにだけ見えるところで、人知れず涙を零していました。
おがっちはこれらのことを、きっと計算ではなく、役者としての本能や感性でやっているのだろうと思います。
結果として、決して子供たちに弱いところは見せない。子供たちのことを第一に考え、自分は常に明るく、優しく振る舞える、そんなウォルシュ先生になっていた。
ウォルシュ先生役だったから、今回のおがっちがそういう芝居になった訳じゃなくて。おがっちだったから、ウォルシュ先生がそんな先生になった。自己の想いを表現することが求められることの多いスタジオライフに於いて、本当に稀有で、貴重な存在だと改めて思いました。
こうして振り返ると、コアラとカンガルー、全然違ったなぁ(笑)
どっちが好きとか僕には全然なくて、同じくらいみんな好きだったし、同じくらいどっちのチームも大切でした。
テオ役の笠原さん、船戸さんに対してお客様から
「どっちのテオが可愛いですか?」
なんて聞かれたりもしたけれど、どちらも大切な息子。どっちがなんて選べないです。本当に同じくらい、二人とも僕の中で振り切ってかわいかったんです。
そしてまた、今回のブログで触れていない面々も含め、この座組の全員が、僕にはかけがえのない大切な存在でした。
スタジオライフがみな家族のような仲だったからこそ実現したスタジオライフ版「THE SMALL POPPIES」
決して壮大でも重厚でもない、何気ない風景を切り取った作品。
でもこの作品で僕は改めて
スタジオライフの劇団員で良かったな、と
この家族の一員として生きている今が、本当に幸せな生活なのだな、と
そう思ったのでした。