なんでもない日、おめでとう。

なんでもない日、おめでとう。

仕切り直し‎|•'-'•)و

小学校3年生の時、習っていたピアノの発表会出演のご褒美に、きれいな花柄の日記帳をもらった。それから日記を書くのが習慣となり、その日にあったこと、友達にも家族にも言えないような悩み、悩みとまではいかないけれど悶々と考えていることなどを、その日の終わりにひたすら綴っていた。

 

ものを書く習慣のおかげで国語は常に得意科目。大学受験では、当時は小論文と国語と英語だけで入れた早稲田の一文に合格した。そのあと、またまたひたすらマスコミ塾での小論文の練習をして、全国紙の記者になった。

 

ものを書くことが好きで、それが仕事にもなった私は、物理学の研究所の中で広報の仕事をしたり、法律の専門メディアでライターをしたり、いろいろなところに行って、いろいろな文章を書いた。

 

20代前半には、個人でアメーバブログを開設して、そこで寄付を募ってアフリカの村にソーラーパネルを送ったり、女性性器切除の問題を訴えたりとか、青年海外協力隊の試験挑戦からフランス語の研修、ニジェールの村での生活の様子なども綴っていた。10年くらい続けて、それなりの反響もあったのだけれど、それは、1人目の子供が生まれたときに、自分自身も生まれ変わったような気がして、書いたものすべてが自分のものではない気がして全部消してしまった。

 

そのあと、30代前半にTwitterのアカウントを開設。途中からある賛否両論分かれる問題を扱い出して、ほぼその問題しかつぶやかないアカウントになっていた。それも10年くらいやっていたけれど、炎上しがちなテーマでもあったし、それを本名でやっていたので、職場や近所の人やママ友や昔の同級生など実際の生活の人間関係の中でも、意外とけっこう知られていて、ヒソヒソされてしまうようなこともあったので、足枷のようになってしまい、消してしまった。

 

自由に書いては、違和感や負担から消す、を繰り返してきてしまった私は、この状態でさらに思うままに文章が書ける場が欲しいと、アメブロを復活。自己紹介という自己紹介ではないけれど、そんなわけで自由に、文字を通じてまた、いろいろなことがしていきたいなと思うとわくわくしてくる。やっぱり書くことが好きで、自由に書ける場ができた今、わたしは水を得た魚状態です。

 

アフリカのことや物理のこと、40代の女性の雑談的なエッセイなども書いていきたい。あと、今挑戦している行政書士の資格取得に向けた勉強のことなども書いていきたい。自分でも思ってもいないような文章が生まれることを期待したい。まだまだ人生これからです。

先日、某大手企業の管理職の方と話していて、多くの働く会社員が「属人的な仕事を排除しなくてはならない」と思い込んでいるのはなぜか、という話題になった。

私は「その人にしかできない」仕事だからこそ、やりがいが生まれるものだと思っている。その人にしかできないからこそ、その人にお願いしたいという需要が生まれる。その会社にその人がいるから、その会社にお願いする。そういうことだ。

先日、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の一般公開に行ってきた。ノーベル物理学賞を受賞した「小林・益川理論」を証明したSuperKEKB / Belle II実験においても、たとえば測定器のワイヤー1本張るのに、なぜか「その人じゃないとうまくいかない」ということがあるという話は聞いたことがある。

一般公開では、ハドロン実験の測定器について、大学院生が一生懸命に説明してくれたのだが、そこでも、測定器にワイヤーを張るときには、もう「えいやっ」といくんですよ、と手作業での実験装置の細部の作り方を教えてくれた。精密実験の内部の超精密な測定部品を作るのも手作業であり、そこは機械ではないのかと、とても面白かった。その人の経験やセンスからくる「手作業」こそが、巨大物理実験の心臓部をも形作っている。

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一般公開で拝んできたBelle Il測定器


私は紙媒体やWebページの制作が専門であるが、デザイナーや編集者、ライターの仕事も各人の経験やセンスからくる言葉一つの選び方や、余白の取り方、アイディアが「良い作品」を形作る。「その人だからこそ」の属人的な仕事だからこそ、「良いものをつくる」というやりがいも生まれるというものだ。

結局「属人的な仕事は排除しなくてはならない」というのは、それによって代替的な人材を確保できる、経営者の都合の発想なのだろう。それを働く側が、そういうもの、と思い込まされている風潮はつまらないし、ひいては社会全体の「活力」を削いでしまうものなのではないかと思う。

冒頭のその方とは、「属人的な仕事自体が問題なわけではなくて、その仕事を社内で引き継いでいく教育システムの不備のほうが問題ですよね」という結論で双方納得した。

私は裁量をもって任せてもらえる仕事がしていきたいし、自分にしかできない仕事だからこそやりがいを感じるし、そのやり方を教えてほしい、という後輩がいたら喜んで指導したい。そういう社会になるように、これからも「属人的な仕事は…」という人を発見したら、「それは働き手側の論理ではない」と、こまめに食ってかかっていこうと思います。

うちの子どもたちは、アフリカ・ニジェールと日本のいわゆる「ハーフ」である。現在、小6と小3。日本の公立小学校に通っている。

 

小3の次女は、運動会には毎年リレーの選手に選ばれるくらい足が速い。一方の長女の方は、体育が苦手で、運動会は毎年「休みたい」と言っている。日本で子育てをしていると主におばさま世代から、「アフリカ人とのハーフなら足が速いんでしょ?」とステレオタイプな言葉を直接言われる機会も多いが、長女にはそうした言葉がプレッシャーにもなっているようだ。

 

そうしたことの「反省」からか、最近は国や民族などをひとくくりにして「こうでしょ」とイメージで決めつけるようなことは、すべて「差別」であると世間的に認識されるようになってきた。

 

ただ、今夏の世界陸上での日本人選手の活躍ぶりを見ていると、アフリカンとのミックスの選手の体格や運動能力は、遺伝的に恵まれているものであるというのは誰もが認めざるを得ない事実なのではないだろうか。

 

その身体能力が高いことの科学的根拠は何かあるだろうかと、ChatGPTに「なぜ日本人とアフリカ人のミックスの陸上選手は身体能力が高いのか」と聞いてみたところ、それは民族をくくりにした偏見で、そうした傾向があるというだけの話です、という風に、慎重に叱られた。会話を続けようとしても「民族をくくるのは偏見です」と言われてしまい、どうも話がかみ合わない。

壁打ちを重ねていくと、

西アフリカ系は、速筋線維(瞬発力を生む筋肉)割合が高い傾向。骨格が細く筋肉のつきが良い。短距離に強い。
東アフリカ高地(ケニア、エチオピアなど)は、酸素効率のよい血液特性。高地順応。長距離に強い。
北欧系は、骨格が大きく、寒冷地適応(体温保持能力が高い)。
東アジア系は、筋肉密度が高く、持久系・技術系競技に適する傾向。
これは環境に何万年も適応してきた結果の「集団的傾向」であって、「どの人種が優れている」という意味ではありません。

 

としぶしぶそれぞれの民族の傾向と特徴を教えてくれた。それぞれの集団の傾向としての特徴は、やはりある。

 

ただ、それを探ろうとすること自体、アフリカンのハーフのいいところを挙げてほめようとすること自体が「差別」と言われているように感じてしまった。

 

そうした「反差別」への配慮で、結局お互いに何も言えなくなってしまう現象は、ChatGPTでも実社会でも(特に教育関係)けっこうある。

 

社会的な傾向として、「多様性」を尊重するあまりに、これまでの価値観が崩れて、排外主義的になったり、自信を失ってしまっている人が多いのもあるだろう。自分が「何が良いと思うのか悪いと考えるのか」「何が好きなのか嫌いなのか」ということがわからなくなってしまっているから、批判を恐れて、何も言えなくなってしまっているのだ。

 

ただ、ChatGPTとの壁打ちでもそうだけれど、対話を通じての長い文脈では「偏見」やステレオタイプな「イメージ」を越えて分かり合えること、得られるものも多い。

 

いずれにしても娘たちは、アフリカンの血が入っているからこそ足が速いし、リズム感もむちゃくちゃあるし、聴覚や嗅覚も常人離れしているし、それはアフリカルーツだからこそ「でもある」と思う。そして、そうではない部分ももちろんある、ということは、母の考えとして常々伝えていきたい。

 

また、それがあなた自身の個性を形作っているんだよ、ということ。それを伝え続ける長い長い文脈が大事なのだと思う。ルーツを大事にしたうえでの個人として、まずは成人のころ、どんな才能を開花させてくれるのか、とても楽しみだ。