工房が250年も続くなんて、しかもこんなに小さな工房が。

それは小さいが故で小回りが出来た事なのかも知れない。

 

天保4年の庄内沖の大地震で、遠く離れた能登輪島にも大津波が寄せてきた。

そのときの事が、昭和生まれの私にまで口伝えで伝わっている。

(天保4年の輪島中心地の被災の様子が記録されていて、当工房蔵被災が記載されていた)

 

塗師蔵が隣の蔵にまで動いたのを戻した。だが蔵の物は助かった。

明治の43年の1300軒ほどの町を燃えつくす大火でも母屋は燃えたが、蔵は残った。

(明治43年大火前年に道具箱大30箱作る書き入れあり、その翌年明治44年に刷毛箱5つ制作記載がある)

 

そんな江戸中期から明治の後半まで、色々な災害に負うが現在まで工房が

継いた事を考えたら、地元だけではなく遠地に伸ばした人との繫がりが有ったからではないだろうか。

 

現在は、次の世代に繫ぐ為、輪島から金沢にも工房拠点をつくっている。

海外や日本各地の色々な人たちと、また他分野や同業者との連携も考えたら

そう有るべきと考えた。しかもわざや仕事は繋がってこそ、進化させらるからだ。