みなさまにご心配をおかけしていますこのブログの張本人zyzysanですが、この3,4日が山といわれたにもかかわらず、まったくやばいそぶりもなく、普通にねたきりの障がい者といったところです。


最初に医者にいわれたことを伝えていた人には、意識不明の瀕死の重体を想像してくると正直「あれっ」といった印象です。



家にいたときよりも身なりもきちんとしてもらって肌艶もよく、動く左半身は看護師の手をぎゅっとにぎってはなさなかったり、(ちなみに看護師救出のため、私の手で交代するとふりほどかれる!)抜けた鼻への酸素吸入のチューブを自分で直してみたり、ベッドガードをもって起き上がろうとしたり、たちあがろうとしたり、けっこうアクティブです。何よりもしゃべれないのが相当ストレスならしく、文句たらたらのご様子です。そのくせ、こちらの指示には従わないので、意識がない人扱いなのですが。


医者に言われて「会いたい人には今のうち」を実践してみたら、やたらと人が来てしまっています。

意外と人気者?最初の日は20人くらいつぎつぎ来て全員に同じ説明をしていたらだんだん父の表情がうんざりっぽくなっていました。


おとついは独り暮らしの95歳のzyzy母(ワタシの祖母ですね)も会いにきました

今日はケアホームにいるzyzy息子(ワタシの弟)も会いにきました。

まさにみんなが会いに来るものだから本人もきっと自分相当やばいんだろうなと感じてることでしょう。



それにしても、私はこのブログを正直、なんておもしろくない小難しいことばっかりのブログなんだろうと思っていてほとんど読んでいなくて、「まあ今日も生きているな」という安否確認のために見るくらいだったのですが、これだけの方がご心配してくれてコメントいただいているのにはびっくりでした。


本当にありがとうございます。


おかげさまで日に日に回復をとげておりますので、本人がブログ更新する日を楽しみに?待っていてくださいね。






さきほど、小諸なる古城のほとりの記事をアップしました。

でも、この記事を書いた本人はただいま病院にて、再びブログをアップできることがだいぶ厳しい状態にあります。


zyzysanの記事にあったカワイイ下の娘(ふきのとうを持ち込んだ方です)がこの文を書いています。


昨日、夕方に配食サービスの方から、電気はついているのに鍵がしまって応答がなく何度電話してもつながらないということで連絡をいただきました。


「携帯を持たずにでかけたのかな」とかも考えましたが、父に限ってそういうことはあんまりなく、いやな予感と笑い話で済めばそれに越したことはないという両方の思いをかかえながらかけつけました。


玄関をあけると台所で倒れている父の姿がありました。

声をかけるとこちらを見て言葉はないものの意識はある感じだったので少し安堵しながらも救急車を呼び、冷たくなった手足を毛布であたためながら、酸素ボンベを持ってきて息苦しそうな父になんとか酸素をと鼻につなぎました。

すこ

台所にはしいたけとおとつい私の買ってきた肉じゃがのレトルトもこげついていて、ガスレンジが自動消火したらしくピコピコとランプがついていました。自動消火するタイプでなければ完全に火事になっていたかもと思うとぞっとしました。切った菜の花などもまないたの上にそのままで、夕食の用意中に倒れたのでしょう。とはいえ、父のことだからきっと早い時間から用意をしていたにちがいなく、倒れてから冷たい台所の床で長い時間を過ごしていたことが想像されました。


結局、脳梗塞をおこし脳の左半分がだいぶやられていました。もともとぼろぼろになっている肺のこととも考えると命の危険もある状態のようです。左脳ということで言語や空間認識や視野などにも影響が出ているほか右半身のまひもあり、今後は助かっても寝たきりであることや意識があるかどうかというようなことも言われました。


延命措置のことなど、いろいろな判断をせまられ、かけつけてくれた姉と叔父とも話し合い、どう見ても意識がなくもう十分と感じるまでは、気管挿管や胃ろうなどでも命をつないで頑張って貰おうという結論をだしました。


私にも姉にも父は確かに今までも十分に頑張ってきた人ではあるけれども、まだまだ頑張る気持ちをもっているように感じられるのです。まだまだ生きようとしているように思えるのです。しゃべれなくても、呼吸も自発的にできなくても、父が生きようとしていると感じられる限りは尊厳がないかもしれないけれどもできるかぎりやれるとこまでやってくれるのではないかなといいうちょっとした甘えがあるのです。



ひとりぐらしでおいていたことなどいろいろとこうなったことへ後悔?みたいなものももやもやとは湧いてきますが、ワタシはワタシの今できることをやれるようにやっていくのみです。


ちなみにブログは父はいつもワードで下書きを作成し、全部保管していたようです。

いつ倒れたかを知るためにブログを見たのですが、おとつい作成されたこの記事がまだアップされずに残っていましたのでさきほどの小諸の記事をとりあえずアップした次第です。


ちなみに昨日アップされた車椅子の記事も作成はおとついでしたが、アップしたのはきのうの13時30分なのでそれまでは元気だったんだなあと判明しました。

zyzysanのブログ-ふきのとう


小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る


島崎藤村の千曲川旅情の詩。唐突だが、目にした「千曲」という文字から頭に浮かんだ。大学の一年の秋だっただろうか、独り、信濃路を旅した。人生初めての旅らしい旅、少しく感傷的になる理由のある旅だった。小諸城址だったか、上田城だったか、草笛を奏でる人が居た記憶がある。

目にした「千曲」の文字はこれ。

下の娘の手土産、その生産地が長野県千曲市となっているのだ。この辺は、オヤジの好みをよく心得ている愛いヤツではある。蕗の薹に赤唐辛子なども入っており、食も進めば酒も進むというものだ。

ラベルには何故か「山幸彦」と謳っている。山の幸の意だろうが、海彦山彦の話は宮崎県ではなかったか。ついでに思い出した。小3のときの学芸会の出し物がこの話だった。小生の役どころが、山幸彦だった。言わば、準主役? 意地の悪い方だから適役? いずれにせよ、肝腎要のところで、曾祖父が亡くなり、葬儀のために出演出来なかった恨みも残る。その後は、このような役にありつくことは絶えてないが、もし、あのとき出演出来ていたら才能は開花していたかも?

ところで、千曲市とはどこなのだろうか。調べてみると、小諸とは若干方角が違って、姥捨、戸倉山田温泉方面のようだ。姥捨と言えば、田毎の月・・・やめておこう、年寄りの脳みそは芋づる式だ。が、美味い蕎麦なども喰いたくなった。




千曲川旅情の歌      島 崎 藤 村


   一


小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む



   二


昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る