すべては意見から始まらなければならない。意見は事実によって検証されなければならない。ドラッカー
私たちはどこへ向かうのだろうか。多様性の時代と言われる今だからこその迷いともいえるこの悩みに私たちは苦しんではいないだろうか。SNSの発達により、私たちはたくさんの意見に接することができるようになった。その反面、何を信じてよいのか分からなくなる人もいる。コロナウイルスが猛威を振るう中、世界では利益を上げるため、人口を減らすために意図的にウイルスを作り出している者がいる、というった陰謀論もある。私自身、親戚に陰謀論の支持者がいるので議論をしたことがある。
どの情報もそれを信じて発信している人がいる。それは事実である。であるならば、私たちはその情報の存在自体は受け入れるべきであろう。議論すべきはその中身である。否定から入るのではなく、地に足の着いた議論を展開しなければ、物事の真実は見えてこない。
一方で、あまたの情報がある程度の説得力を持って蔓延している時、私たちは路頭に迷ってしまうことがある。自分が知らなかったことが多すぎて自らを恥じ、同時に何が真実なのか分からない。混乱してしまう。
処方箋をひとつ提示するのであれば、正解など存在しない、と割り切ってしまうことである。皆が真実だと思っていることを語っているのだ、と言うことは前述の通りである。結局のところ多数の支持者がいる情報が「真実らしいもの」ではあるが、真実として語られるのである。
正解は後からつくられるのである。ちょうどノーベル賞の受賞者発表の時期であるが、化学や医学の分野では新たな発見が著しい。それは新たな発見がなされていることを意味する。その発見はこれまでの常識を覆すものもあるだろう。私たちが習ってきたダーウィンの進化論ですら、アメリカの一部の学校では誤りであるとして教えていない。世界に目を向ければ、私たちが当たり前のように信じていることも、そうではない、と言うことがあるのだ。
正解など存在しない、と考えると「では自分は何を信じればいいのか」と不安になることもあると思う。しかし、これは肯定的に捉えるべきだと私は思う。
何の為に議論が存在するのか。それは多くの価値観、意見をぶつけることで、それらを深めていくことにある。議論なくして新たな知見は存在しない。異なる意見を持つことは同然であり、それらを発信することが重要である、と考える。
私たちは他者と異なる意見を持つことを無意識にも敬遠してしまう。他者と意見が異なると自分の中で修正して、他者と合わせてしまう。これがよくない、と私は思う。もちろん、場面にもよるのであるが、「あなたの意見があれば」と思う場面が多くあるのだ。
私たちが自らの意見に縛られる、と表現されることがある。それで結構ではないか。自分の意見がないよりはましだ。意見のある人が組織を前に動かすのだ。問題はすぐに意見を言わない、後になってから言うことだ。これは意見ではない。文句だ。
どうやら個人の価値観、意見は千差万別。人によって異なる。これは以下を考えれば当たり前のことである。
私たちの価値観・意見は私たちの経験に依拠している。私たちの人生は唯一無二のものであり、他者のそれと異なっていて当然である。したがって、私たちの価値観・意見が異なっているのは当たり前なのである。
私の話をすると、私は幼少期より祖父の暴力を耐えてきて、成人してからはうつ症状を経験しており、それらが自らの価値観に大きな影響を与えている、と言うことを身をもって実感している。以上のような経験がなければ、今の私はもっと異なっているはずである。
HSP、アダルトチルドレン、うつ病……、得体のしれないものに名前をつければ大方目付ができるのであるが、それが「私」というものを100%表現しているとは思えない。それはあくまでも目付をしたに過ぎない。うつ病一つとっても、私のそれと他のうつ病患者のそれは同じではない。経験の中身が異なるからだ。
様々な意見という材料を集めて頭という名の鍋で煮込む。鍋を覗いて料理の出来具合を見るのではもったいない。せっかくならよそってみてほしい。そして味見をしてみてほしい。できればそれをみんなに御馳走しよう。味の感想も聞いてみよう。そうすれば料理の味の良しあしが分かるから。次につながるから。
頭の中で何が正しいのか分からないのは料理を鍋の上から覗いているから。味をみることを恐れるのはもったいない。他者の舌を通して自らの料理を客観視してみよう。
自らの意見を掘り下げた究極体が論文である。論文がなぜ究極体なのか。それは独りよがりの意見ではないからだ。他者の意見・価値観、論文を引用し、吟味して、自らの意見を深化させているからだ。
論文を書くには実験も大切である。これは自らの予想を実践によって確かめる作業である。突き詰めれば自らの意見のアウトプットである。実験には失敗がつきものである。失敗を恐れてはいけない。失敗から学ぶものも多い。問題は失敗を笑うものがいることである。笑われることを恐れる自らの心である。
失敗を恐れてはいけない。それ以上に大切なのは他者の失敗を笑ってはいけない。自らの考えとかけ離れたものだからと突き放してはいけない。その中身をよく吟味してみる必要がある。その第一歩として他者の考えの存在を認める必要がある。
論文のスタートは意見である。意見が意見のままで終わるか、論文になるかはその後の自らの行動にかかっている。
博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔(そむ)かざるべきか。(広く書物を読んで、それを礼(の実践)で引きしめていくならば、道に背かないでおれるだろうね。)孔子『論語』 巻第六 顔淵第十二の十五 金谷治 訳 岩波書店 1999
結局のところ自らの意見・価値観というものは自分の信じたいもの、信じられるものにほかならない。そして意見・価値観は私たちの経験に依拠している。だから世の中にはたくさんの意見があり、なかには受け入れられないものもある。
その存在を認めよう。そして自らの中に取り込もう。実践しよう。実験しよう。そうして私たちの考えが深化し、すべての人々が自らを認められ、お互いに手を取り合って生きていける世の中であることを願ってやまない。
自らの意見を深化させるこは、他者との意見との違いを明確にする。それは亀裂を生むものではないと信じている。他者の意見の存在を認めることである。最後にフレデリック・バールズの「ゲシュタルトの祈り」を引用して終わることとする。
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。私はなにもあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない。そしてあなたも私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃないでしょう。私は私。あなたはあなた。でも、偶然私たちが分かり合えるならそれは素敵なこと。たとえ分かり合えなくてもそれもまた同じように素晴らしいこと。フレデリック・バールズ
今日の一曲♪
『No Rain. No Rainbow』(2020)
(歌:水樹奈々 作詞:ヨシダタクミ 作曲:ヨシダタクミ)
一昨日にリリースした自身40本目のシングル。
歌詞もさることながらタイトルがいいよね。
ジャケットの写真も奈々さんはお気に入りのようで。
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