先日、横浜DeNAベイスターズのラミレス監督が監督通算300勝を達成されました。おめでとうございます!「ラミレス采配」ともいわれる、毎試合、スタメン選手をがらりと入れ替えることやバントをしないスタイルなど、他の球団とは一味違うところをみせてくれます。現役時代からメモ魔のようで、データに基づいた采配が生きているのかもしれません。これからも応援しています!

 

うらみわびの「この映画がおもしろい」第6回。今回は時代の進化を感じさせるアニメーション映画を紹介します。

 

 

 

勝手に評価表

ストーリー

☆☆☆

アクション

☆☆☆☆

感動

☆☆☆

 

もし明日、世界が終るとしたら

それを阻止するためなら私たちは

誰かの大切な「誰か」を殺すことができるだろうか


 どんな映画?

 本作は2019年に公開されましたが、Hulu博報堂グループのアニメ制作スタジオ・グタフタ―が2017年に制作・公開したアニメ『ソウタイセカイ』がベースとなった映画です。『ソウタイセカイ』は2部構成厳密にいうとストーリーの細かな点は異なりますが、本作は『ソウタイセカイ』の完全版といってよいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 もし、この世界とは違う世界がどこかに存在していたらとしたら・・・。実は第2次世界大戦を機に日本は2つの世界に分断されていた。片方は融和的で都市が発展していった。もう片方の日本は公女と呼ばれる国家元首が権力を握る独裁国家となっており、国家とレジスタンスの内戦が続いていた。2つの世界には姿かたちがうり二つの「相対」とよばれる存在がある。「片方の相対が死ねばもう片方も死ぬ」。そんな法則をある科学者が発見した。

 高校生の狭間真は幼いころに母を突然死で亡くした。それ以降はごく平凡な毎日を過ごしていたが、ある日突然、見知らぬ少女に命を狙われるがある男に助けられる。「俺がお前を助ける」。そう言った男は真とそっくりな風貌をしたハザマジンと名乗る男だった。

 

 ここに注目!

 本作の見どころはなんといってもバトルシーン!アグレッシブなカメラワークは臨場感があります。そして綺麗なグラフィック。思わず「アニメはここまで来たか」と驚きました。色合いが綺麗なんです。ちょっと他のアニメとは違うから違う世界に迷い込んだ感じ陥りました。

 声優陣も豪華ですね。ヒロインの泉琴莉役には内田真礼さん。最近では『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪訳令嬢に転生してしまった…』で天真爛漫な主人公を演じていたので、今作のおとなしくて真の強い女性役はまた好対照でした。他にも双子のアンドロイド、ミコとリコを悠木碧さん水瀬いのりさんが演じられています。お二人ともアンドロイドの演技が上手でびっくりしました!「そういえば『銀魂』でこんなキャラがいたな」とちょっと思ってしまいました(笑い)

 本作ではあいみょんさんの楽曲が使われているのもポイントです!挿入歌の『ら、のはなし』、主題歌の『あした世界が終るとしても』はどちらも本作の世界観とマッチしていて聴き入ってしまいました。特に『あした世界が終るとしても』は歌詞の1番と2番が相対する2つの世界を表していて、お互いが歩み寄るというのが、あいみょんさんさすがだな、と思いました。


 



作品の配信が終了している可能性があります。


 


ここからはネタバレを含みます。読み進める際はご注意ください。

 

 

 










 壮絶なラスト

 もう、絵が綺麗すぎて終始見とれてしまった。戦闘シーンは固唾をのんで見守っていた。最後はジンのトリックプレイが見事だった。

 話の終わりとしては日本公民共和国の世界からは帰れずにそこで新たな生活を始める、という終わり方を想像していたが、もとの世界にもどることができてほっとした。それにしてもラストで琴莉が生き返っていることに驚いた。ソウタイが死んでも生き返ることがあるのだろうか。それともあれは真が見た幻だったのだろうか。あとは共和国の方の世界でまた独裁国家が興らないことを祈るばかりである。

 

 

 「一緒帰ろ?」

 って普通言うのかな?私の感覚では「一緒『に』帰ろ?」なのだが。個人的にちょっと違和感があって目立ったセリフだった。それにしてもお互いにちょっと意識しあった関係で2人きりで帰るシチュエーションってドキドキする。なかなかお互いにあと1歩が踏み出せなくて躊躇してしまう。見ている方としては心がくすぐったい感じ。でも、それはお互いがお互いを大切にしているからなのだろう。もしかしたら琴莉の方は相手がアタックしているのを待っているだけか。

 

 

 キノコ雲

 もう一つ、気になったシーンは共和国で公女がソウタイの密集地に「『アレ』を落とせ」と言うところだ。そして街の上空にキノコ雲が立つ。これを見て原爆を思わずにはいられない。公女はもう一つの日本の関与を恐れて、日本人の「相対」を大量破壊兵器を用いて殺害したのだ。

 「相対」はお互いに存在を知らない未知の関係であるが、命はつながっている。そこがみそである。一方が危険な存在である、と判断されればもう一方にも命の危険がせまるのである。これは1対1の関係でみると単純であるが、国家と国民という関係でみると現在の私たちの社会を表しているともいえる。つまり、ある国家が危険と判断されれば、その国民を殺してでも国家をとめなければならない、という大義が発生する可能性があるのだ。はたしてこのような論理が通用してよいのだろうか。あるものの破壊の為に関係のない命が犠牲となってもいいのだろうか。私たちは考える必要がある。

 

 恐怖と自己防衛

 日本公民共和国は公女に権力を集中させることで強い国家をつくるという独裁国家である。国家に反対する者に対しては容赦をしない。そのようにして恐怖で国民を支配していくのだ。

 「恐怖」というものは、人を支配するのが最も容易な道具である。「恐怖は一滴でいい」とは誰の言葉だったか。

 厄介なのは、このような恐怖や力で支配する者を覆すには力によってしかなしえないのではないか、という疑問である。力とは最もシンプルで強力な道具だ。人間の幸福を考えるならば論考とその実践こそが人間を最上位へと押し上げてくれるのであるが、力の前では論考は歯が立たない、ということを昨今の世界情勢をみると思い知らされる。

 はたして、私たちはどこへ向かうべきなのか。力を蓄える者がいる。その者の脅威から身を守るのにはどうしたらよいのだろうか。私たちも同じく力を蓄えるべきだろうか。論で相手を諭すべきだろうか。そして蓄えた力で先制攻撃をするべきだろうか。ちょうど公女がそうしたように。

 そして、相対の先にあるのが、誰かが大切に想う「誰か」であった場合にこの疑問がさらに難解なものとなる。世界や国家という大きなものを救うには小さな命の犠牲は許されるのか、という問題である。

 無論、小さな命の犠牲は許されるものではない。しかし、その小さな命が「国家を救う」という大義や地理的な距離、そして恐怖によってその関係が希薄になってしまえば、私たちがその命を軽んじてしまう、ということも十分に考えられる。

 実際にコロナ禍において、私たちは自分たちのテリトリーを守るために他者に対して排他的かつ高圧的になっている現状に鑑みれば、私たちの身にせまる恐怖がどれだけ私たちを駆り立てるか、が分かるだろう。

 無論、このような排他的な行動は生物学的には生存のための自己防衛的行動と捉えることはできるだろう。私たちは全体の個体数こそ減ることにはなるが、優秀な個体を残すことには成功し、結果としてテリトリーは維持されるのだ。

 しかし、そのようなスタンスでよいのだろうか。困難なときこそ私たちは助け合わなければならないのではないだろうか。詭弁だろうか。これまで日本を含む先進諸国は資本主義の自由競争の原理によって経済社会が成長してきた。しかし、そのようなシステムの中に今回の感染症による経済社会の停滞のリスク回避がどの程度盛り込まれているのかは疑問だ。「もともと経営が日の車だった店は淘汰されるべきだ。これを機に早々と商売を畳んだほうがいい」。そんな声も聞こえてくる。このことに関する是非についてはここでは触れないが、どうにかして人を生かす道を模索するべきだ。

 人に施すことで社会全体が幸福になる。そんな研究結果も世界ではある。しかし、その施しというのも余力があって初めて実現する。私たちは成長だけを求めるのではなく、その余力を生み出すような持続可能な成長社会を目指していきたい。大きな議論であるが、その面ではベーシックインカムも議論に値しよう。技術の進歩が人間の労働を補完するのであれば、これからは人間の幸福感も労働の上での大きな資産となるのだ。

 

 人間同士の争いから経済まで少し話が右往左往したが、どれも現代を生きる私たちが避けては通れない議題である、と私は考えている。人から与えてもらうパンに安住するのではなく、私たちはパンを手に入れながら余暇を愉しむことだってできるはずだ。時代はそこまできている。

 問題は、そのような社会の発展とは裏腹に戦力という脅威をため込み、その使用をちらつかせ交渉を有利に進めようとする集団がいる、ということである。悲しいかな。これも技術の進歩がなせる業だ。

 日本で原爆の被害に遭われた36万8千人とその関係者、そして世界で唯一、原爆を落とされた国の国民として皆が原爆の存在を呪うことだろう。その一方で私たちは原発の恩恵に少なからずあずかっている。だからこそ、技術者だけでなく、その利用者として私たちは技術利用については、その用途と目的、危険性について常に目を光らせていなければならないのだ。

 

 本作が見せてくれるのが、国家や社会の歩む道によってどれだけ社会が変わっていくのか、そして成長の可能性があるのか、ということだ。

 日本は決して全てが成功しているわけではない。戦後に民主主義国家として再び歩みを始め、高度経済成長という成功体験をし、公害そして原発事故から環境について考える。学ぶべきことは学び伝えるべきことは伝える。日本が平和先進国として世界に向けてさらに平和と融和の大切さを伝え続けることを望む。

 

 技術の進歩は人間の命の尊さ、幸福という人間にとって本質的に大切なものを覆い隠してしまう。私たちは身に付けるものも大切であるが、もっと身体的なもの、心的なものを第一に考えてみてはどうだろうか。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

今日の一曲♪

『Face to Face』(歌:石原夏織 作詞:松井五郎 作曲:俊龍)(2019)

ジャケットの写真ですが、あんな感じで見つめられるとドキドキしちゃいますね。




 

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