直傳靈氣を習い始めてからよくするようになったのは胸とみぞおち、頭に靈氣をかけることです。
時々不安になったりすると胸とみぞおちに靈氣をかける。
それが頭の時もあります。
そうすると大抵は呼吸が深まっていって眠ってしまうのですが、起きたときは体感も軽くなっています。
不安だったことは消えてなくなってはいないけど、その不安が一つの雲のように感じられる。
「あっ、雲(不安なこと)があるな」って、その不安に浸るのではなくて不安という雲が在るな~と離れて感じられるようになってきました。
そして不安という雲はあるけれど、それをチョイスしなければ創造的に自分を動かすことができるんだって思いました。
今朝、夢を見たんです。
知人が出てきてその知人が私に「不安をチョイスしちゃうだけだよね」って。
それでハッと目が覚めてそうだわぁーーっと気がつきました。
不安をチョイスしているだけ。
不安をチョイスして悶々するなら、想像して心が軽くなっていくことや今できる何かに向けて行動する方をチョイスすればいいだけなんだぁって思ったのです。
とっても当たり前で当たり前すぎることなんだけど夢でハッと気づきました。
頭や胸、みぞおちに靈氣をかけていることの効用
靈氣をかけるようになってフラットな時間も増えてきたことも嬉しい
続けて受けているワークと靈氣をかけることでの相乗効果を得てるとも思う
直傳靈氣を習い始めてよかった。
そしてそれを活かしているという喜びも感じられる。
生きているってことは選択の連続だけど、何かを選択してそこに自分を投入していくとき結果を考えるとすんごい不安になる時がある。
でもそれでも、結果に確信がなくても進んでいってみたら結局は失うものは何ひとつなかったってことを知れる。
結果を受けてショックを受けるかもしれないし、自分の不甲斐なさを嘆くかもしれない。
でも選択して進んだ自分が体験したことはそこから先の人生の糧になる。
選択したことに向けて動いていった自分。
恐々しながらも動いた自分。
泣こうがショックを受けようが結果を受け容れた自分。
それらは全部自分の宝になる。
そこから先を生きていく自分の糧になる。
失うものは何もない。
上の写真はOSHO禅タロットの【8・トラベリング】。
このカードがすき。
この素晴らしい風景をぬって道を歩む小さな人影は、ゴールのことなど気にしていません。
彼、あるいは彼女は、旅そのものがゴール、巡礼そのものが聖地だということを知っています。
道を歩む一歩一歩、それ自体が大切なのです。
<巡礼そのものが聖地>(解説書より)
人生の様々な出来事に向き合って泣いたり笑ったり落ち込んだり、それでも日々を生きていく。
それでも・・それでも・・・。
それが巡礼だって
巡礼そのものが聖地だって
道を歩む一歩一歩、それ自体が大切だって
誰もがみんな尊い存在で、誰一人としてもれなく旅の途中にいる。
冒険し、成長しているという感触がもたらされることが約束されている(解説書より)
だから人生には無駄なことは何一つない。
すべて体験は冒険で結果ではなくそこからの成長があるだけ。
閉じられていない、誰にも開かれている道。
ずっと続く巡礼という聖地を味わいながら歩いていこう。