染師・まいまい です
お祭りの前にちょっと観光
五智国分寺(ごちこくぶんじ)にやって来ました
聖武天皇の時代にこの地にも国分寺が置かれました
国府(役所)とセットで・・・
えっ 建物(寺)がある
私の地元、栃木県の下野国分寺は史跡になってしまっていて
瓦のかけら とか、建造物の跡ぐらいしか
残ってないのに~
聖武天皇の時代、下野国分寺は数ある中でも
重視されていたのに、散々な状態です
※詳細は・・・
テーマ・ 僧侶が天皇になる!?道鏡と孝謙天皇
歴史散策・下野国分寺跡 国分尼寺跡 3
をご覧ください
すご~い ど~ゆ~こと
そうですか~ さすがです
戦国武将、上杉謙信が再興して以来、今に至ってる
のですね
やっぱり、昔も今もだと思いますが、きちんとした教育
を受けた偉人は文化を大事にしてますよね
文化は人の心を豊かに育てますからね
文化レベルも向上するし
有力なリーダーが盛りたてたモノならより、
文化の大切さを学んだ意識レベルの高い人たちが、
こうしてきちんと守り伝えようとするのですね
※この国分寺は本来の場所ではないそうです
本来の場所はわかっていないそうですよ
その点、下野国分寺は、本来あった場所は確実に
わかってますよ
境内には親鸞関連のモノも・・・・
この地へ流罪でやって来た親鸞
流人として5年、その後、2年をこの五智周辺で
妻の恵信尼(えしんに)や弟子たちと過ごしました
その後、たくさんの信者さんとの別れを惜しみながら、
関東への布教を決心し、常陸国(茨城県)に向かいます・・・
親鸞と恵信尼は子宝にも恵まれました
7人はいるのだとか・・・
恵信尼さん、すばらしいですよ~
43歳くらいまで産んでらしたそうです
女性としての生命力が強いとゆうか・・・
尊敬します
親鸞は高齢になってから、子のうちの一人、
「善鸞(ぜんらん)」に悩まされます
父、親鸞は都にもどりますが、
息子、善鸞は常陸国にとどまり、布教活動しますが、
従来の父の教えには従わず、独自の考えで活動し始めます
親鸞は、手紙で度々いさめますが、
全く言うことを聞き入れません
息子からすれば、父が偉大だとプレッシャーだし
反発せずにはいられなかったのかもしれません
そして父、親鸞は人知れず、阿弥陀如来に
手を合わせ、静かに涙を流し続けました
父と子、いつまでも互いに試練、修行の身だったの
でしょうね
ついに、親鸞84歳の時、息子、善鸞に勘当状を送り、
90歳で他界するまで、生涯、許すことはありませんでした
・・・・・と、親鸞のお話はこんな感じです
あと味わるい・・・・
どうにかハッピーエンドにならなかったのかしら・・・
親鸞たちが布教活動の拠点にしていた
竹之内草庵