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私のノート

アダルトチルドレン(AC)なので、自己分析が多いです。




最近は、親との折り合いが悪くて
縁を切っている人が選ぶ人生に

必要なガイドが増えてきています。

遺贈とか墓じまいとか、昔はなかった言葉が
すぐに出てくるのが良きです。







ウチもお互いにACなので
ずっと前からそのつもりで

情報が増えているのがありがたい

どんどん一般化していくんだろうし
楽になるねーなんて話をします。







私は、子供の頃から決めていたような事で
特別感はなく、同じような立場の人を
見る必要を感じません。

欲しいのは「やり方」の情報だけ。

私たちがその計画を実行するときは
今よりもっとシステム化されているから
現在の詳しい情報を得る必要もありません。








だから、知らない誰かがそこに至るまでの
「気持ちの移行に」そんなに興味がありません。
だって、私は決めてるから。







でも、夫は「そうなったまでの気持ち」を
読みたがりで、なるほどと思いました。

彼は「共感」を求めている。

私は「情報」を求めているだけだなぁと。
共感を求めないのは私の癖だと気がついた🤔
コレ、自分の感情を無視してるって事だ。








でも、コレこそが私が生きるために
必要だった方法なんだけどな。

何でわざわざ辛い経験を思い出すの?

同じ辛い思いをしている人の話を聞いて
「追体験」することの方が辛い。







傷を舐め合ってると永遠に治らない。
怪我したら、治るまで待つしかないの。

元気に楽しく待つ方が有意義だよ。

痛い痛いって言いながらソコばっかり見つめて
原因を反芻して、それを取り戻すことで
頭がいっぱいで時間だけ無駄に過ぎる。。。
取り戻すことなんて出来ないのに。








それに、社会は怪我をしていない人の基準で
作られていて、それが「常識」と言われる。

「幸せ」や「成功」への憧れに満ち

それが手に入らないこと自体が不幸だから
個人の怪我なんて視界に入るわけがない。







そして、社会は目まぐるしく移り変わる。
自分の怪我なんて気にしてたら
社会の移行がわからなくなってしまう。

つまり、常識が分からない人になってしまう

だから、怪我をしていない人の生活や習慣を
知っておかないといけない。
「常識」というものを身につけるために。
自分には分からないことだから。








そう思って共感を避けてきたんだよなぁ。
だって、似たようなトラウマがある人は

夜の人だったりアッチの人だったり

今のように気持ちだけで繋がることのできる
日の当たるネットワークもなかったから
不健康そのもの。避けることの必要性w







ちょっと付き合うにしても極端すぎて
自分の理想の人生とかけ離れすぎていて

無理だったから仕方がない。

それが、楽しいと感じる人ならいいけど
居場所を得られる人もいるからね。
でも、私は無理だったから。








だから、共感は避けるのが得策だった。
そして、私は「デキル」人だった。。。

極端に避けて無視してやり過ぎた。

何事もほどほどって言うけど
それが1番難しいのよね。
強烈な学びでした。








「普通」ならは、コレを楽しむ。
「普通」ならば、喜ぶ。

本当は苦痛だったけど無視してた。

そんな縛りから自分を解放すること。
ってか、ダイバーシティよ🙂‍↕️多様性。
社会の移行に乗りつつ、自分の心にも乗る。







辛かったことを認めて、私は私に共感する。
人には見えなくても、私は知っている。

私が苦痛に感じることを避けてもいい

自分を「許す」ということ。
常識から外れるということではない。
自分を優先することの大切さ。
共感の大切さ。