おばあちゃん。
私の両親は幼い頃離婚。
母親がいない朝、目の前に居たのは鳥取に住んでたおばあちゃん。
現在が受け入れられず、嫌だという私。
しばらく嫌だといちいち文句言ってた。
ご飯作ってもらってるのにこれ嫌いって言って食べなかった。
身体の皮膚が弱い私のために、柔軟剤は使わずに洗ってくれた。
汚れたパンツは手洗いしてくれた。
まいちゃん何食べたい?って聞いてくれて、頑張って洋風も作ってくれた。
家から遠いのに歩いて毎日スーパー行って安いものを買って毎日毎日手料理。
お菓子がないのを怒ったりもした。
ごめんねって買ってきてくれた。
毎年ハンテンを手縫いで作ってくれた。
反抗期、連絡しないで朝帰りの私にちゃんと怒ってくれた。
電話に出なかったりもした。
父親の文句を2人で言うようになった。
一緒にお茶飲んでたくわん食べたり、世間話したり、
おばあちゃんの大好きなあんこもの食べたり、お菓子作りを手伝ってくれたり。
一緒に遠いバラ園に行った。とても嬉しそう。
でもご飯が詰まってトイレで吐いてしまう。
その時も絶対辛いと言わないおばあちゃん。
とても字が上手だった。
裁縫も出来た。
物を捨てるのも嫌いでちゃんとまとめて置いてありました。
お掃除も毎日してくれました。
私は家を出ました。
たまにしか帰らなくなり、おばあちゃんから遠のきました。
同じ話をするようになりました。
ずっと元気だと思ってたおばあちゃん。
近道を使って転んで骨折。
病院先に駆けつけて、手術まちの入院。
おばあちゃんは認知症にかかりました。
身体も動く事が出来なくなりました。
仕事の合間をぬってできるだけ施設に通い、喋りかけました。
でもうんうんの数は減りすぐに喋らなくなりました。
毎回行くので施設の方と顔見知りに(施設は何回か変わってます)
「あなたもしかしてまいちゃん?」
と施設の方から聞かれました。
はい。
というと
金子さんね、時々まいちゃんって言うのよ!喋らないのにまいちゃんって言うの。
毎回毎回話しかけて、足と手をマッサージ、
時には大好きだった美空ひばりの曲を耳元でかけたり、大きめのキャンパスとぺんを持っていき、持ってもらって、何かを書いてもらったり。
当然書けません。
食べる事も同行できる時は私か父がご飯をあげました。
アイスを食べてくれる事に気がつき、買って行ってあげたりしました。
しかしどんどん食べてくれなくなりました。
おばあちゃん口開けて!ほら美味しいよ?
口から摂取して欲しい一心で頑張って時間を置いてまたあげたり、
食べれなくなって点滴になりました。
ずっと横になってる状態です。
もうまいちゃんとはいってくれませんでした。
そんな生活が10年。
いとこ達は全然来なかったです。
肝臓がもうダメだと聞き、そろそろですと言われました。
もう大それた検査や治療などはやらないと父と決めました。
この日かもと言われたとある日、私は仕事を休んでおばあちゃんに会いにいきました。
その日も来たよー!っていつものように。
その後、息を引き取りました。
父もいました。
普段私は人前で泣きません。
その時もグッと堪えて泣かなかったです。
事前に私が調べてお葬式などの準備をしておきました。あまり大きくやりたくないと父もきっとおばあちゃんもと思い家族葬にしました。
お花が大好きだったおばあちゃん。
お花をいっぱいにしました。
遺影写真は私と行った時のバラ園の写真を提案。それに決定しました。
葬儀が終わり焼き場で最後の挨拶。
そのまま棺桶が中に入っていく時、私は初めて涙が止まらず泣きました。父も同じくそこで泣きました。
バイバイと手を振って、
おばあちゃんとお別れしました。
いつもわがままいって困らせて、ごめんね。
おばあちゃん育ててくれて本当にありがとう。
最強だと思ってたおばあちゃん。
本当は凄く頑張り屋さんだったんだね。
まいちゃんって施設で言ってくれた事、凄く凄く嬉しかったです。
花嫁姿を見せる夢は叶わなかったですが、一緒に過ごせた日は私の宝物です。
天国でおじいちゃんとまた楽しく暮らしてね!
まいちゃん頑張るよー!!