ぐるぐる回って
どうにもこうにも、

結局、どんなにしたって

私の場合、ネガティブに意識を向けると、それに同化して行ってしまう

ちょっとづつ、気がつかないようにそっと寄り添って、手を繋いでしまう


途中までは手放していけるんだけど
知らない間に一緒に共演しちゃってる

それで、苦しくなってきて、あれ?ということになるわけだ


だから今度は、意識を向けても短い時間にしようとか、
次を探さずに一個手放したら、一回戻ろうとか、
感情を感じるのはやめようとか、
繰り返すたびに決意して来たのだけど、
もどる~



それで、今回の結論は


そもそも問題を問題と見ることが問題なんじゃないの?


病気で言うなら、
パニック障害が治らないことを問題とみることが間違ってるんじゃないの?
身体の状態を心の状態を問題として取り上げることが違ってるんじゃないの?

ということになった


なので、問題が問題だと思うことが問題だ!!とブツブツ言って暮らすことにしました



自分のやっていることが見えてきた


感情にのまれて苦しむ
 ↓
あれ?どうなってるんだ?
 ↓
あれこれ手放したり、メソッドしたり対処
 ↓
ん?また次の感情が出来きて苦しい、きりがない
 ↓
間違ってない?
 ↓
ああ、そうだった
ただあるってことを感じよう
 ↓
ちょっといい感じに
 ↓
感情が出てきても簡単に手放せる
 ↓
少しずつづれて、感情を感じる方向に
 ↓
最初に戻る


これを延々と繰り返してる

抜けだそうと決意したのに戻って来てる
どうする?


昨日はあれから、悲しみに向き合えず…


というのも、身体がぞくぞくざわざわしてしまって
動悸&不安に陥ってしまい
そっちに対処するしかなくなってしまった


それも久しぶりだったので
更に動揺してしまって
午後をほとんどそれに費やしてしまった


こうなると毎回、
それで、どうするんだっけ?

と、全く身についていない私
もうこれを何回も繰り返している



この3、4日は、意識して手放すというよりは
湧き上がってきた感情やら感覚やらに対して
ほぼ自動的に、愛を感じたり、感謝したりというパターンになっていて
私はただ涙を拭く係だけつとめていたんだけれど
今回はこれが上手く作動しなかった



結局、全部基本を忘れていた

まず、どうありたいのか?
どんな自分でいたいのか?

これをきれいさっぱり忘れて、ネガティブな感情にのまれていたことに気付いた

これも毎回なんだけど


自分で選べることも、忘却の彼方


私がありたいのは
リラックスだった、と思いだしたら
重い何かがすっと取れて楽になった


今日は、パニック障害を身体からみることに興味がわいて
あれこれ調べてます


結局、どこから取りかかってもいいんだな~って思った
身体から楽にしてあげてもいいし
精神的なアプローチからでも
自分がこれだって思う入り口から入ったら一番楽なんだろうな、と
しみじみ思った


病気の苦しみの真っただ中にいると
誰かの助言とか、常識とか
そういうものに従わなくちゃいけないような気がして
そうしなければ治らないんだ、なんて信じさえして
気が進まなかったり、
苦しかったりするものを
選びがちになってしまうものだから


立ち止まって
まず、自分に尋ねる
というのは大事なのだ
(私!忘れるなよ!)


パニック障害と肩甲骨あたり
これは何やら親密な関係がありそうだということが
はっきりしてきて
わたくしは、ときめいております

また、書きます