ちょっと、長い感じで書いていきますが、ここで言いたいのは、働くとか一部学校でとかの「改革」といえば大げさですけど、ちょっと考え方を変えたほうが、ストレスとか無くなるのにと思えたことを書いていきます。
ニュースとかで、見ていますと、とかく日本ではイジメとかそれが学生時代だけではなく形を「ハラスメント「と称して、社会人も蔓延している。
要は、「嫌な思いをする」と言う受け手側の事を「いじめ」とか「ハラスメント」とか名称を付けているわけですが、これら全部、たった一つの原因が招いている事なんです。
そのたった一つの原因さえ、わかれば解決! とまぁ単純なものではなく、ほとんどの人が気づいているけど、
あまりその一つの原因 = 一つの言葉を発しないんですね。
だって、その経験をあまりにもしてこなかったので、本当にそうだ!と決心が持てない、物心ついたときから、教えられた事を
ほとんど否定することにつながるし、もしかするとそれを言うことで、自分が逆に「嫌な思いをする」ので言わないかも知れない。
ここで、その一言を書いちゃうのは、簡単ですが、それだと、99%信用出来ないので、つらつらと書いていきます。
まずは、ここではっきりしておくべきは「嫌な思いをさせる」側がどちらか?という事です。
・あいつ、変だから、ちょっとおちょくってみよう。
・あの子、可愛らしいな、ちょっとほめてみよう。
・あいつは、こうだから、仲間じゃない、外さなきゃ。
・何あのだっさい格好!
こういうような感じでいじめもハラスメントと言うのがあります。
ここで、一つだけ共通しているのは、『評価』です。
日本での評価は大体が、
A: 先生が生徒を評価
B: 上司が部下を評価
C: グループ(仲間)が別の人を評価
D: ライバルを評価
と評価と書くと、???という面もありますが、言い換えると
A: 先生が生徒を評価(成績をつける、注意をするなど)
B: 上司が部下を評価(評価までにも、注意をする。教えるなど)
C: グループ(仲間)が別の人を評価(チームで何かをなしとげるために、優秀でないものを評価する)
D: ライバルを評価(ライバルの弱点を見つける)
こういうような内容です。そして、これらが全て、いじめなどに繋がります。
評価はなにかの指針であるけれど、この世の中で、評価をする側もされる側も、自分のことは分かっていないもしくは棚において
評価を行っていることがほとんどと思えます。
A: この子の成績が悪いのは、宿題が足りない?家庭環境の問題?
B: 全然この社員の営業成績が上がらないのは、理解が悪い?お客様への評判が悪い?
C: こいつのせいで、うちのグループの足を引っ張られている! 皆もそう思っている!
D: あいつは、性格も悪いんだ!ズルをしてるはずだ!
というような考えにあり、評価をしている人は自分の事はさておき、自分の考えを共有していこうとする。
ときには、共有した人に、「あなたもこうでしょ?」なんて言われたとしても、その人を飛ばしてたり、強調しながら共有できる仲間を見つけ出す事が多い。
また、日本での評価と言うものは、大体、第三者が評価を行うことが通常であり、それが正しい・正しくないと言う基準が曖昧です。
この評価とは、例えば受験・資格などにおける、「知識」のみを対象としての、合否の評価と言う点ではなく、人を評価する。と言う曖昧なところにあると言う事の話になります。
では、
1.学校は、学業を教える機関であり、評価者は「教員資格認定試験」に合格をしている。
つまり、各生徒の成績(学問・運動など)においての評価はできるが、その他はできない評価者である。
道徳なども学問として、捉える場合、社会マナーなどは、この学問の範囲で、理解をさせることが目的であり、個人の思想や性格を指導・評価すべきではない。
2.会社は、会社の利益を優先しての「評価」を行う機関である。
その社員の業務が会社における利益に貢献をしているか? という判断基準がある。
会社では、
必ず指定した時間内に指定した到達可能なボリューム業務の場合には、「生産性」のみで評価を行える。(製造や開発などにおける場合)
何らかの取引において、それをスムーズに進行させた度合いの評価。
これは、普通にはっきりしている評価で気にすることもありません。
(営業その他における場合)
非生産的人員:外部との取引においての売上などに直結できない人材の評価(経理・人事など)が主流であると思われる。
では、こういった評価と言う文化がいかに色々なところにあるかと言うと、実際全てに評価は存在します。これを批判と置換えても良いかも知れません。
で、こういった評価は、きちんとした基準がない限り、悪い方向へ働きます。
なので、他人への評価は、評価基準もない限り、本来行うべきものでは無い。と言う結論づけになります。
では、なぜ他人を評価してはいけないのか?
前述の通り、数値で判断できる特定の事柄以外を評価できる専門家ではないから、または信頼がないから。
例えば、会社の上司が社員を評価できる能力を持っているでしょうか?
以前に林修先生が、「組織では無能な人が出世する」林修氏が指摘「優秀だった人がいつの間にか無能な管理職になってしまう」という指摘をしました。
「そもそも無能な人とは違う、かつては優秀だった人が、いつの間にか無能な管理職になってしまうという、ちょっと種類の違うもう1つの無能が世の中にはある」
「仮に主任の仕事をクリアしたとしましょう。そうすると、さらに出世して地区長に出世するかもしれない。もっと広い範囲を管理しなきゃいけなくなり、主任まではなんとかなったけど、地区長になったらお手上げってことが起きる。つまり、主任で止まるということは、主任としての能力がない人がそのポジションにいることになる」
「無能な人が上のポジションにいるでしょ?そういう人が上にいたら、自分を脅かす有能な部下を昇進させると思います?」
「過去30年以上の取材生活で何度か見た、『一番無能な奴が、無能なので仕事を割り振られず、その結果失敗せずに、自分は有能だという意識のままに昇進してトップに立ってしまう現象』って、ほんとなんとかならんもんかな、と思う。減点主義考課って、一番ダメなのが一番偉くなったりするんだよ」
などと言うことですが、もっと簡単に言いますと、技術職で秀でた人を評価して、役員にした。なんていうケース。
技術で秀でている人が、技術を教えると言うのは、きちんと行えるでしょう。
しかしながら、全く違う分野のマネジメントや評価・人事考課などをやったこともない人にできるでしょうか?
これは、全く違う能力となり、会社としては評価を行いたいのであれば、専門のコンサルタントに任せるか、専門の人間を外から雇うべきなのです。
普段、
「あいつ、生意気だ」 「能力も無いのに、意見しやがって」 など、普段などで感じている人。
何か問題があった時にその当事者・関係者や部署などにとにかく怒る人。
などは、評価をするポジションに向いていません。
また、日本の教育上、
連帯責任・チームワークなどなど、随所で聞かれていると思います。
連帯責任なんて、どうして存在するのでしょうか? これが何らかの犯罪行為があり、関連する人たちが罰則を受ける場合もあるのは納得できるが、
そもそも、学生や社会人・従業員に連帯責任を取らせると言うのは、「お前は犯罪に等しい行為をした」と言わんばかりのプレッシャーを与えかねません。
会社は、その人に労働法に基づいた正当な賃金を与え、正当に評価し能力を見極めた人に業務を遂行してもらっているのに、責任を持たせるとは、どの範囲で持たせるのでしょうか? 同じく連帯責任とは、それを行うための「コーチング」は行った上での事項でしょうか?
チームワークも連帯責任と同様なのです。
チームの中で、悪い成績が居ると、自分も罰を受ける。
チームの中で、良い成績が居ると、自分が罰を受ける。
それが、結局お互いを、評価しあい、ライバル視して、結局は「仲間」ではなくなってしまう方が多い。
でも、連帯責任やチームワーク自体が悪い。 わけではありません。
それの意味をきちんと把握できていないことが悪いのです。
次のブログでは、では「評価をされる側がどうするば良いのか?」について書いていきます。
