とある漫画で出逢った言葉。
原文はもう少し違う言い方だ。

それにしてもずいぶん印象的だった。

当時は、なんと物騒な、と驚いたものだ。


しかし今なら分かる。

それは真実だ。


ただ、誤解しないで欲しい。

喧嘩を売りまくれとか買いまくれとか、
そういったことを言っているのではない。


戦う対象は、いつだって自分自身だ。


外側に敵はいない。

戦うべきは常に自分自身。


外側に敵をつくった時点で、私たちはその戦いに負けていることになる。



さて、ここでも誤解をしないで欲しい点がある。


自分と戦うというのは、
自身の行いに対してジャッジをしまくることではない。

自分を責めたってなんの意味もない。

むしろマイナスなのでぜひ止めていただきたい。


ではどういうことなのか。


「100%自分の喜びに基づいた選択をすること」


これに尽きると私は思っている。



私たちは、毎日毎瞬、選択し続けている。


その選択肢は、ざっくり分けるとこのふたつ。


「自分の喜びに基づいたもの」「そうでないもの」だ。


入る言葉は、それぞれ


「進化成長を促すもの」とそうでないもの

「宇宙の法則に基づくもの」とそうでないもの

「本来の魂としての自分」「後天的な自我」

「愛」「恐れ」


などにも置き換えられるだろう。



あなたが喜ぶことは、何者にも代え難い素晴らしいものだ。


あなたのみならず、周りの人をも幸せにしてしまえるパワーを持っている。


それはあなた自身が持つ本来の、純粋なちから。命の輝きだ。


あなたや他の誰かにとっての、進化成長の糧だ。


大いなる宇宙を奏でる正しい鼓動だ。



にも関わらず、それを難しく感じるときがある。

むしろそれを選択しないことの方が多い気がする。

少なくとも私なんかはそうだった。



なぜか?



それは、
「そうでない選択肢」が、めちゃくちゃ誘惑してくるからである。


本物は静かにあなたを待つが、

そうでない声はとにかくウルサイ。


「そうでない選択肢」、つまりもうひとりの後天的な自分であり、エゴの声だ。


例えば、


あの人に嫌われないか
他の人の迷惑ではないのか
今それをする必要はあるのか
先が見えないから怖い
時間がない
お金がない
面倒くさい


などなど。

誰もが聞き覚えのある声かと思う。


それらはすべて自分の内側からわきおこるマインドであり、

「戦うべきは自分」である所以だ。


マインドは何かと心配したり恐れたりするが、

だいたいのことは杞憂である。


私たちが本当に100%の喜びを生きるとき、
誰かを不幸にしてしまったりだとか、
傷付けてしまったり、
あるいは取り返しのつかない事態になったりすることは、ない。
そこは安心して、自分の感覚を信頼してほしい。


だがここでうっかりマインドの声を受け入れてしまうと、私たち本来の輝きは曇り始める。

その瞬間から、自分自身ではないものに人生をとって代わられていることになる。


「そうでない選択肢」はラクチンだ。


だって、逃げてればいいんだから。


やりたくない、やれない理由を繕って、自分ではない何かに責任を投げ、依存し、流されていればいいのだから。


そりゃめちゃくちゃラクですよね。



でも、いつか必ず苦しくなる。


魂が叫ぶのだ。


「こんなことをする為に生まれてきたんじゃない!!!!」


と。



みんなそうだ。


自分の命を輝かせたいから、ここにいる。


ここで生きたいと、

願いに願ってやってきた。



ありえない倍率をくぐり抜け、

ありえない年月をかけて「やりたいことリスト」を完成させ、

そりゃもうワックワクしながらここへ来た。



ゲーム気分を味わいたいがために忘れてはいるけれど、

魂はちゃんと知っている。


あなたの喜びを。

あなた本来の、純粋ないのちの輝きを。




だから、私たちは戦わねばならない。


魂を守るために。


自分ではない何かに主導権を握らせることなく、
いのちを全うするために。


愛と喜びに基づく精妙なエネルギーで、

聖域を侵すものに毅然と「NO!」を示すのだ。




「生きることは、戦うこと」


可愛らしい女の子から放たれた力強いこの言葉は、
時を経たいまも私の礎となっている。

このシェアによって 必要とする人の心に少しでも何か残せたならば幸いである。




私は料理が苦手だ。

ごぼうのささがきも碌に作れない。

第一味つけだって不味くて、とても人には食べさせられない。

そう思っていた。


ある日、恐るおそる人に振る舞ってみたら、

「美味しいじゃん!!!」

と絶賛してもらえた。


ただの思い込みだったのだ。


あと単に切れない包丁を使ってただけだった。笑



低い声の自分に、高音域の歌は無理だと思っていた。


プロの方に相談してみたら、

意外に音域が広いこと、むしろ高音域こそ武器になりうることが分かった。




万事、そんなもんである。



まず、無意味な刷り込みや思い込みに、無意識のうちに支配されている。



昔はこうだったから無理に決まってる


うちの家庭ではそうだ
世間の流れはああだ

○○が言うから
お金ない
時間ない
なんとなく嫌だ


云々。



私たちの純なる好奇心に、バリエーション豊富な、一見尤もらしい罠をはって待ち構えている。



そこで魔法使いは空を飛ぶ。


一面にはりめぐらされた罠の上、

二次元一辺倒の世界に多次元の感覚をもたらし、

目指す着地点へ最短距離で向かう。




話が逸れちゃった。


まずはこの罠に気付く必要がある。

引っかかるだけ時間の無駄だ。

早めに気付けると とってもラクチンである。



次に、発想の転換をしてみる。


上記の例にならえば、道具を変える、アドバイスをもらう、など。


ほんの少しだけ、視点を変えてみるのだ。


イヤだそんなのするもんか、と思っていた方法ほど、あっさり解決してくれたりもする。


同じように、イヤだそんなの無理に決まってる、と思うジャンルほど、自分の隠れた才能だったりする。


この作業が案外楽しい。

そのうち「イヤだ!!」を克服するのが快感にもなっていくよ。(エムではない)




過去と今は、繋がるようでいて実はそうじゃない。


過去と今は、ほぼ関係ない。


ちょうど他人と自分の関係のように。



やってみなきゃ分からないんである。



とにかく思いついたらやってみよう。




なかなか飛べずにいるその崖は、実は幻かもしれない。


その崖を飛べたとき、思い出すだろう。
自分には、何処へでも行ける翼が生えていることを。



自由に楽しもう。

色んな景色を見にゆこう。

どうせ、ぜんぶ上手くいくんだから( ´ ▽ ` )ノ☆





久しぶりに素敵な作家さんをみつけた。

茨木のり子さん。


「自分の感受性くらい」
「わたしが一番きれいだったとき」

という有名な詩は知っていたが、学生だった当時、そのきっぱりとした作風に戸惑いのほうが大きかった。
若かったんだね。( ´ ▽ ` )


年を重ねたいまは、むしろ気持ちよく心に響いてくる。


凛と輝くいのちが、無機質な二次元を飛び越えて伝わる。


ずっとふれていたくなる、貴重な作家さんだ。


ああ。出逢えてよかった。





自分というものをしっかり持っているひとは、美しい。



今回出逢えた茨木のり子さんをはじめ、


夏目漱石、谷崎潤一郎、高村光太郎、梶井基次郎、三島由紀夫、幸田文……



私が愛する文人たちはもれなく美しかった。



頑なに自分を貫くさまは、ときに時代遅れにうつるのかもしれない。


それでも私はそうありたいと願う。


それが私にとっての美しさなのだ。