『rehearsal』





「まだ、入らない?」

「もうちょっとで入る…」

「やっぱり、わたしがやろうか?」

「いや、大丈夫」

「今度、糸通し持って来るね」

日曜の午後

アパートの部屋に掛けていた制服のボタンが取れかかっていると指摘され

付け直してくれると言うのを断って、自分で針に糸を通そうと格闘すること既に10分

彼女にやってもらえば早いのは百も承知だが

普段からこういうことは彼女に頼ってばかりで申し訳ないのと、一人暮らしをしている以上ある程度の家事はこなせるようにしたいと思い裁縫道具を探しだし

時間はかかったが何とか自分の手でボタンを付け終えると

「すごーい、上手に出来てる」

まるで小さな子供にするように大袈裟に褒められ恥ずかしくなった

「母親じゃねぇんだからそういう言い方はやめろよ」

「あはは、ごめんなさい。でも…」

「なんだよ?」

ちょっと、いやめちゃくちゃ予感がした

「母親みたいな気持ちもちょっとだけあるかも。だって赤ちゃんに生まれ変わった時に何ヶ月もお世話したんだもん」

案の定、この世で一番思い出して欲しくない話をし始めた

「泣いたらあやしてミルクもあげたし、お風呂だって」

「ストップ!」

慌てて彼女を後ろから抱きしめ、片手でその唇を塞いだ

「頼むからその話はやめてくれ」

出来ることならその頃の記憶だけ彼女の頭の中から消してしまいたい

「ごめんなさい…でも、そんなに嫌だった?」

緩められた腕から逃れるようにしてこっちを向いて謝った彼女に、何故か反対に申し訳ない気持ちに襲われた

「嫌っていうか、あまり思い出して欲しくないっていうか」

俺自身、赤ん坊の時の記憶こそ無いものの徐々に成長してからのことはかすかに覚えてはいるが

何にせよ幼かった時の俺は、不安と恐怖に押し潰されそうだったに違いない彼女に守ってもらうしか生きる術は無く

彼女が最も支えて欲しかったであろう時に、傍にいたのに何もしてやれなかったという悔しい思いが今だに頭の片隅から離れずにいる

「あの…ほんとにごめんなさい。」

自分でもはっきり分かるほど険しい表情をしたまま黙り込でいた俺は、彼女の泣きそうな声が聞こえてはっとした

「違うんだ」

「えっ?」

「あぁ、いや違わねぇけど」

「?」

なんて言えばいいんだ

「悪かったなって思って、その…いろいろ面倒かけちまって」

「なんだ、そんなこと」

ほっとした表情になった彼女が俺の手を取り、自分の頬にあてると優しく微笑んだ

「こちらこそ、お世話させてくれてありがとう」

「なんでだよ、礼を言わなきゃいけないのはこっちだろう?」

柔らかい頬に俺の手のひらを押し当てたまま、少しだけ俯いた彼女がつぶやいた

「だって…将来、子供が出来た時の予行練習になったもの」

「はぁ?」

おそらく、彼女は素直に思ったことを口にしただけなのだろうが

いくらなんでも直球すぎる一言に、うろたえてしまいそうになったのを誤魔化すためにまた例の手を使う

「じゃあ、子供を作る予行練習もさせてやろうか?」

「えっ!?」

抱き寄せて唇を重ねると一瞬で強張った華奢な身体を押し倒したところで

「悪い、タイムアップだ」

バイトに行く時間になった

「ひどい、また人のことからかって!」

怒った顔もそれはそれで可愛い…などという本音を言えるわけもなく

「送ってくから、ちゃんと家で予習しとけよ」

「予習って…」

再び顔を赤くした彼女の耳元にそっと囁く

「明日の授業に決まってんだろう、バカ」

「もう、知らない!」

背中を向けて部屋を出ようとする彼女の機嫌を直すのは、針に糸を通すよりも難しく

どこまでも不器用な俺と純粋過ぎる彼女の恋愛は、まだまだ練習不足なのかもしれない




fin