麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑦おなかがすいた
このところウオーキングにいそしんでいます。
なるべく土の細道を選んで、古い陣屋町のある谷間をぐるっと囲むように遠回りして歩きます。
それは遠いむかし、小さなわたしが近所の子どもたちと探検した野山の細道と、あちこちで重なります。
それらの道は、そのころの里人の山仕事の道であったり、けものたちのつくったかすかな道であったり
しました。
熊は九州にいないので、イノシシ除けのつもりで鈴を鳴らしていきます。
ものの芽の吹く春、笹原を行くと、枝先の葉の中心から針のように細長く丸まった新しい葉っぱが伸びています。
その柔らかい緑のそばを通るたびに思います。
「たべられる。」
道の傍らには松の木もあって、これも新しい明るい緑の葉をつんつんと伸ばしています。
「たべられる。」
古い町並みに入ると「武家屋敷」の名残の杉垣から噴き出した無数の若芽がゆれています。
「たべられる。」
ものの芽だけでなく、いろんなものを小さなわたしたちは食べました。
畔に生えるシシントウ(スイバ)の葉、堤の上の茅花。
誰もお腹をこわさなかったのは、年長の子どもたちから食べてもいいものを教わっていたからではないかと思います。
野生の果物はけっこうごちそうの部類に入りました。
初夏の木いちご、草いちご、ゆすら梅、茱萸、秋のあけび、山ぶどう、生の栗。
茱萸や山ぶどうは酸っぱすぎたし、生の栗は口の中がえぐくなってそんなにたくさんは食べられませんでしたけど。
柿は栽培作物でしたので、よその地所の柿を無断で食べていると,決まって藪がガサガサと揺れて持ち主のおじさんが「誰かあ!」と怒鳴りながら現れて、子どもたちは一斉に走って逃げたものです。
「誰か」は見ればわかったはずですが、あとで子どもの家に苦情がきたことはなかったですね。
子どもの頃はいつも「おなかがすいた。」と思っていました。
団塊の世代の後から生まれましたから、もちろん父母や祖父母の世代が体験したような本物の飢えというものは知りません。
時代は既に「高度成長期」に入っていましたが、いちばん近い海から40㎞、生の魚をまだ「無塩」と呼んでいる山里でしたので、都市部とはずいぶん食事の中身が違っていたかもしれません。
そのうえ諸般の事情でうちにはあまりお金がなかったし、世帯主の祖父が貧乏性で粗食を奨励していたので、日々の食事はきちんと食べられたけれど、おかずはつましいものでした。
それでもときどき魚がありました。新鮮ではなかったけれど肉もありました。ほとんどクジラでしたが。
飢えてはいませんでしたが、おなかはすいていました。
何か、そう、葉っぱでも生栗でもいいから、身体を維持する三度の食事以外のものが無性に食べたかったのです。
粉末ジュースというものがお店に売られていました。
ずいぶん不健康な飲み物だったと思いますが、水に溶いたらたちまち完成というハイテクな感じと、
着色料の鮮やかな光彩が、夢や憧れのようなものを満たしてくれて、そのころの子どもたちにはごちそうでした。
でも、それも体に悪いということでめったに買ってもらえませんでした。
そうそう、確率は高くありませんでしたが、そういう感じのものを飲めるチャンスが小学校にありました。
回虫の虫下しです。
回虫の卵が発見された子どもは先生に呼ばれて保健室に行き、オレンジジュース味の駆除剤を飲ませてもらえるのです。
名前を呼ばれなかった子どもたちからは「いいなあ~。」という羨望のため息がもれました。
呼ばれた子の後をぞろぞろとついて行き、隙間を見つけて中を覗きこみました。
回虫持ちの子は引き戸の隙間にたくさんの眼が並んでいるのを尻目に、誇らしげにオレンジ色の虫下しを飲み干したものです。
今から考えると学校の職員にそういう医療行為を任せるというのは大いに問題だし、子どものプライバシーなんかあったものではありませんが、わたしたちは回虫のいる子がひたすらうらやましかったし、
本人もうれしそうに威張っていましたっけ。
ほどなく「高度成長」に伴う生活の変化が九州の山里にも訪れました。
畑から肥溜めが消え、野菜や食器を合成洗剤(!)で洗い、毎日お風呂に入る「清潔」な暮らしが一般化したころには、検査結果は当事者だけに伝えられ、駆除も医療機関で行われるようになっていきました。
「食事以外の何か」への渇望が十分に満たされる機会が年に何度かありました。
一つは遠足です。
「おやつは○○円まで」という決まりに沿って母がお菓子を買ってくれました。
工夫すると5~8種類くらいは買えたでしょうか。
この喜びを最大・最長にするため、遠足当日はお弁当の後で少しだけ食べて、残りはうちへ持って帰り、数日をかけて少しずつ消費したものです。
もう一つは都会の親戚の手土産です。
東京からは榮太樓飴や泉屋のクッキーを、関西からはユーハイムのバウムクーヘンやモロゾフのチョコレートをもらいました。
それらは恭しく仏壇の前に供えられ、母や祖父の厳重な管理のもとに少しずつ分配されるのでした。
きらきらした包装、箱を開けるとふわっと立ち上るバターの香り、クッキーに塗られた卵の照り・・・。
それらはふだん野山の果実や葉っぱをかじっている子どもには異次元のおやつでした。
ああ、なんだか三浦哲郎の小説のようになってきたぞ・・・。
日々の暮らしの中でいつも、とっても食べたかったのは、駄菓子屋さんのお菓子でした。
でも、うちではお小遣いがもらえなかったので買えませんでした。
「お金は不浄なもの」「子どもが関わるべきでないもの」という古めかしい意識があったのでしょう。
あるいは買い食いの癖がついてはいけないと考えたのでしょうか。
単にお金がなかったからかもしれません。
親戚からもらうお年玉やお小遣いはまず仏壇に供えられ、そのうち「ゆみちゃんへ」と書かれた熨斗袋ごとどこかへ見えなくなるのでした。
わたしたちの小学校は殿様の陣屋の跡に建っていて、周囲には子どもたち相手の文具屋さんや駄菓子屋さんが何軒かありました。鉄砲組の人たちが住んでいた「鉄砲町」と藩主の墓所がある「寺町」の辻にも古い駄菓子屋さんがありました。
物心ついたときからの幼なじみがそこでお菓子を買っていたので、わたしもよくそこへついていきました。
この辺の町並みは明治の大火の後に建て直されたそうですから、その店もそのころの築だったのでしょう。突き固めた土の上に平たい石を置いて、それを土台にして建てられた、床下をすうすう風の通るお店です。板張りにボール紙の箱やガラスのポットに入ったお菓子が並び、子どもたちはそこに肘をついて今日のおやつを吟味していました。
お金を持っていなかったわたしは、後ろに立って彼らが5円や10円の硬貨と引き換えにニッキ水やくじ付きのガムなどを買うのをじーっと見ていました。
ときどき、幼なじみがわたしの手のひらにラーメン菓子を5、6本のせてくれることがありました。
わたしはそれらを押し頂くようにして、ゆっくりゆっくり1本につき1分ぐらいのスピードでかじりました。
そして、もうちょっともらえないかなあというさもしい期待を胸に彼女の後にくっついてまわったものです。
働くようになってから同い年の同僚にそのことを話すと呆れられてしまいました。
「そりゃあ、情けねえ話じゃなあ。親が聞いたら泣くぞ。」
私もそう思います。気の毒な親たち・・・。
でも、あのころはごはんが入るのとは別のおなかがほんとうにすいていたのです。
時はずんずん流れて、高度成長期が終わり、バブル期さえも昔語りになりました。
陣屋の小学校はとうになくなり、四、五軒あった文具屋さんや駄菓子屋さんは一軒も残っていません。
たまに小学生を見かけると、あっ、子どもだ!と感動してしまいます。
鉄砲町と寺町の辻のお店は住宅に建て替えられて、間口だったところはブロック塀と門柱になりました。
幼なじみの友は西宮に移り住み、もうすっかり関西人です。
回虫のいた子もいなかった子もみんな遠くちりぢりに別れて、何人かは亡くなり、何人かは消息も分かりません。
あのラーメン菓子はリニューアルを重ね、味のバリエーションが増えています。
思い出して「チキン味」の「大人買い」をやってみたのですが、残念、別のお菓子だなあと思うくらい記憶とは違っています。
昔のラーメン菓子はぎしっと稠密で堅く、断面が鋭くとがって、もっと濃厚な味でした。
小さいころは、食べ物の味だけでなく、冬の水が冷たかったこと、転んで痛かったことさえ、くっきりと鮮やかだったような気がします。
今日もイノシシ除けの鈴をちりんちりんと鳴らして歩きます。
鉄砲町と寺町の辻、駄菓子屋さんの跡にさしかかると思うことがあります。
笹の芽や松の芽のみどり、香り立つ泉屋のクッキー、手のひらにのせてもらった5本のラーメン菓子。
おなかがすいたわたし、じつは幸せな子どもだったんだなあと。
長々と昭和終わるか雪の道晴れて遠くに人転びけり
岡部桂一郎『戸塚閑吟集』
麻生由美
大分県出身 1978年まひる野入会
歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)
来月の更新スケジュール
12/ 7 (金) お休み
14(金) まひる野歌人ノート(担当:塚田千束)
21(金) 麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑧
28(金) 山川藍のまえあし!絵日記帖⑦
来月もお楽しみに!