麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑤備中ドラキュラ城

 

 

津山のいとこのお墓参りに行ったとき、岡山県のガイドブックを買いました。

いちおう満遍なくページをめくっていると、山深い備中高梁・新見エリアの観光スポットのところに、

お庄屋さんで鉱山お大尽だったという広兼さんの、お城のようなお屋敷が紹介されていました。

「映画『八つ墓村』のロケ地として有名」と書いてあります。

そうなのか、セットじゃなくて実在のお屋敷を使って撮影したんだ、と眺めているうちにわたしの目はまんまるになりました。

広兼邸へのアクセスの地図なんですが、お屋敷以外の家屋がありません!

いや、よくみるとあるにはありますが1、2軒が遠く離れて記されているだけで集落がありません。

ドラキュラのお城じゃあるまいし、深い山中にお庄屋さんの豪邸だけがぽつんと建っているなんてどういうことでしょう。

お庄屋さんは行政の末端として村の中心にいて、人びとを管理していたはずです。

集落から遠く離れたところでどうやって年貢を集めたり、お触れを通達したりしていたの?

カリスマ? こわーい!

興味を掻き立てられました。いつか行ってみよう!

 

 

『八つ墓村』という物語に出会ったのは小学生の頃でした。

うちではマンガを買ってもらえず、お小遣いもなかったので、隣のお兄ちゃんのところに遊びに行って、

おせんべいをかじりながら、少年マンガを読ませてもらっていました。

『八つ墓村』は『巨人の星』などと一緒の雑誌に連載されていたと思います。

ところどころ読んだのであらすじはよくわからなかったけど、主人公のほんとうのお父さん(その時点では正体不明)が、真夜中に枕元にやって来てしくしく泣くところが最高に怖かったです。

あと、双子のおばあさんが並んで座っているところもなかなか怖かったですね。

あとになって小説を読み、映画も観ましたが、最初に読んだマンガほど怖くはなくてちょっとさびしかったのを覚えています。

 

さて、わたしの高校は家から67㎞ほど離れた大分市にありましたので、毎日自宅から通うことはできません。

高校のすぐそばの下宿屋さんにお世話になることになりました。

下宿は、「八つばか村」と呼ばれていました。

呼ばれた、というよりわたしたち下宿生が「八つばか村なんですよ。」と積極的に吹聴していたようです。

高校や短大に通うため田舎からやってきた8人の“おばか”な下宿生が、毎日ほんとうに楽しく暮らしていました。

人生には少しだけそんな夢のような時間があるものかもしれません。

楽しくなかったことなど思い出せないくらいです。

あまりに学校に近かったので、高校生は始業3分前までご飯を食べ続け、朝のホームルームの後、

トイレで歯磨きをすることもできました。

歯ブラシをくわえたまま走って登校する人もいましたね。

「八つばか村」だからそれでいいのです。

 

部屋の広さは2畳でした。

「2畳?せまい!」と驚かれるのですが、押し入れの上段に持ち物や衣装を入れて、下段に布団を敷いて、2畳の畳に机と本棚を置いて、全く不自由はありません。

コンパクトでシンプルな暮らしです。

それぞれが仕送りのお小遣いで買ったマンガや雑誌は、読み終わると廊下の突き当りの本棚に置くことになっていて、わたしは今まで読めなかったマンガを廊下にうずくまって溺れるように読みました。

あまり映画を観なかったのに、映画のことをところどころ知っていたのは、廊下の突き当りにマンガと一緒に積まれていた映画雑誌のおかげだったのでしょうね。

先輩のだれかが買っていたので「キネマ旬報」なんてけっこう難しそうな雑誌もあって、それを読むと映画のことがわかったような気分になりました。

 

下宿は古い木造の建物でしたので、しばしば何かごそごそする小動物が現れ、現れるとすぐになぜかわたしが呼ばれました。

「あ、ゴキブリ!ゴキブリ!あそうさん呼んで!」

あ?なんでわたし?

とりあえず悲鳴のするところへ駆けつけ、スリッパでたたいて退治します。

わたしは大分市で暮らすようになって初めて、ゴキブリという虫の実物を見ました。

自宅が、百科事典に「冷涼、多雨。」と書かれている山の中にあり、江戸時代の築でしたから気密性なんてものはまるでなく、家の内外も同じように寒かったのでゴキブリが棲めなかったのです。

わたしはそれを一見して、コオロギが平たくなったような虫、バッタの一種だと判断し、なんじゃあ、ごげなもん!と、バシバシ退治しました。

ほんとはバッタよりもカマキリに近い昆虫らしいです。

 

ゴキブリは、ほんとうに気持ち悪いという人にとっては、ほんとうに気持ち悪いもののようですね。

クラスの男の子たちがこんな話をしていたことがあります。

「ゆうべ寝ていたら、ゴキブリがおれの顔の上を通って行ったんだよ。」

「うわー、気持ち悪いなあ。」

「おれ、それからの記憶がない。気絶したんだと思う。」

わたしは笑っているのを知られないように後ろを向かなければなりませんでした。

 

脚を広げると手のひらくらいもある、大きな蜘蛛も出ました。

「あそうさん、あそうさあん!きてきて!クモです!」

カマドウマ(便所コオロギ)も出ました。

「あそうさあん!」

 

お役立ち感があって、けっこう喜んで退治していました。

 

楽しい時はみるみる過ぎてゆき、わたしは高校を卒業して下宿を去ることになりました。

後輩たちと短大生のおねえさんたちが食堂を使ってお別れ会を催してくれました。

余興は、身の回りのもので精一杯扮装をしたシンデレラのお芝居です。

王子さま役の短大生が、男の人だぞ、ということを示すために顔の下半分に濃紺のアイシャドウを塗りのばして出てきたのは、王子というより山賊のようで、最後の夜をみんなと思いきり笑い転げました。

 

 

さらに時は流れ、すっかりおばさんになったわたしは、ふと思い立って備中の広兼邸がほんとうに山中の孤城なのか確かめに行くことにしました。

考えてみるとグーグルマップなどを使えば行かなくても分かったのです。

その時うちは既にインターネットが使える環境になっていたのですが、世の中に疎かったので、グーグルマップって何なんだろう、難しい技術や知識が必要なんだろうな、お金がかかるんだろうなと漠然と思っていたのです。

 

伯備線の高梁駅で路線バスに乗り換えて、老年期のもこもこした丸い山々がどこまでも連なる中国山地の奥深く分け入ります。

車がすれ違うことができないほど狭いところもあり、木の葉が車窓をしゃらしゃらと擦ってゆきます。

うちの町で山の集落へバスで登ってゆく時もこんな感じだなあと思っているうちに、終点、往年の鉱山町吹屋です。

「広兼さんへは4㎞くらいです。タクシーがありますよ。」

「大丈夫、わたし歩いてお遍路に行ったことがあります。」

よく晴れた山の道を気持ちよく歩いていきますと、なるほど、そそり立つ石垣と一体化した城壁のような白壁の築地、お城です。

周囲に見える人家は予想より多いようです。

ガイドブックでは省略されていたのでしょうか。でも、ぽつり、ぽつり。

「大庄屋さんのご門前にしては人家が少なすぎる気がするんですけど。なぜ、こんな寂しいところにお屋敷があるのでしょう。」

管理人の方に聞いてみると、ここは中野といって以前たくさんの人が住んでいたそうです。

鉱山が閉山になり過疎が進むと、一般の人々のお宅は空き家になり、やがて取り壊されていったのですが、お庄屋屋敷は文化財として保護されて、ぽつんと残ったと言うのです。

なんだ、とっても分かりやすい、まっとうな理由があったのでした。

遠く離れた山中から不思議な力で領民を支配するドラキュラ城じゃなかったんだなあ。

 

 

    常磐(ときは)なる吉備の中山おしなべて千歳をまつのふかき色かな

                よみ人知らず 『新古今和歌集』

 

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

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次週予告

9/28(金)更新  「まひる野全国大会」潜入レポート!(佐巻理奈子)

※「まひる野インフォメーション」はお休みします

 

お楽しみに!