マチエール
不安しか分け合うものを持たぬのにもう戻り橋を焼いてしまえり 伊藤いずみ
二の腕に吸い付く甥を抱きしめる何にも満ちぬ乳房を持てり 小原和
この手より作りしものはあらずして経を唱えて家族(うから)養う 大谷宥秀
幼な声明るく響くプレイルームに男の子の時に測る血糖値 浅井美也子
昨日まで十六分音符だったのにヘ音記号にひまわり垂れる 荒川梢
友の死の報を受けし日の晩母はなぜかはりきりて梅を漬けたり 加藤陽平
骨というには脆すぎるそれを持ち傘よ何百年そのまんま 北山あさひ
こんなにも大きくなってしまったと哀しみたたむ子のTシャツを 木部海帆
朝焼けも夕焼けも見える四丁目十三の二十四を所有せり 小瀬川喜井
バカボンのパパは男の歌ことば宇田川さん詠み大松さん詠む 後藤由紀恵
過干渉きもちわるいと子がいえばエアコンがふと唸りはじめる 佐藤華保理
みづのとの響きやまざる島原にきみはいかなるきみでありしか 染野太朗
冷房をつけつぱなしで生きてゐます(写真は関係のないゆりです) 田口綾子
この家に「母」は隠れて一日中眠りてたまに砂糖菓子食う 立花開
その妻に断りもなく御主人を家に上げれば胸がゆらぐよ 田村ふみ乃
あわくかがやく多摩川あれは小鳥の目ときおり跳ねるボールを待ちおり 富田睦子
甘やかし甘やかされる関係になってしまった 閉店のお知らせ 広澤治子
取り込んだシーツの温みしばし抱きそのまま倒れて又汗吸わす 宮田知子
男でも日傘をさすと意気込んで命が惜しいなら早くさせ 山川藍
人集・作品Ⅱ
銃痕の残る美術館に入り日傘まぶしきモネの絵眺む 門間徹子
乳母車を押すが如くに歩むなり二馬力半のこの耕運機 塚澤正
水無月のみどりは多様に揺らめいて柔軟という色だと思う 菊池理恵子
大き綿毛ひとつフロントガラスの前を横切りてより寂しくなりぬ 秋元夏子
豊後郎・十兵衛といふ江戸の世の名をもつ猫と暮らす娘ら 森暁香
娘との同居中には食べられず早速作るいわしの梅煮 飯田世津子
菜の花の黄の色ほどの明るさを持ちて生きたし短き命 福井詳子
われ一人裸になりて草を引く初夏の日差しを全身に浴びて 木本あきら
寄り添ひて昔話をするやうな夕日のやうな枇杷のふつくら 袖山昌子
のこぎりを引く手を止めるこの枝の先に小さきサクランボ二個 小澤光子
かろがろと旅行するとうバリ島を祖母なるわれは地図に探しぬ 齊藤淑子
庭に出て花をながめて入りしとき別人になると夫が常言ふ 坂田千枝
春の蚊は親より教わることもなく人を刺すこと絶やすことなし 奥田巌
「かわいそう」と妻の声が聞こえしか眼光鋭く振り向く少女 矢澤保
月集・作品Ⅲ
わたしいつかすすき野原でさやさやと踊るおばけの一匹となる 佐巻理奈子
ワーキングマザーとくくられ深々と手に食ひ込める買ひ物袋 塚田千束
ばっさりと切ったのよ髪ばっさりよ気づかないのかそっかバカか 藤田美香
夏めきて日を追うごとにほしくなるうどんのプリントされているシャツ 狩峰隆希
落ちるかも知れない保育園の名はめばえたいようはっぴーるーむ 池田郁里
断種されなおも夫婦は睦み合う「野獣の夜」と人は言いけり 八木絹
鳥たちよ自由にこの空翔けめぐれかの戦闘機とばざる日には 片野哲夫
ポケットに見つけた映画の半券をもてあそぶ午後雨の匂いて 立石玲子
銃口をわれに向けしごと満開のリリーフィールド公園の百合 諸見武彦
お前邪魔外してしまえこの入れ歯液状の物のみにて生きる 松宮正子
深夜二時 精霊(すだま)木霊(こだま)の降りてきて葉ずれの音に遊ぶも苦し 仲沢照美
空腹を感じて無理やり起こされるボーっと生きてるわれの細胞 高木啓
飼い主に「おじいわん」と呼ばれいる白く大きな犬と出会えり 杉本聡子
森の匂ひするよと孫のほほ寄する無垢のひのきの学習机 橋野豊子
年下で初対面の男性にちゃん付けされること罪深き 山田ゆき
灰皿にショート・ホープの火を消して ホープと呼ばるる時は短し 久納美輝
そんな腰痛ないですと言う医師がいる病院に払う二一〇〇円 稲葉千咲
亡き人も電子カルテの中に在れば今でも年を取り続けゐえう 浜田真美
薄っぺらな私が透けて見えそうでパンケーキ屋の列を離れる 田崎佳世子
北朝鮮日本で桜が咲く頃にあんずの花が咲くのだという 福田夏子
(む)