麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより④
ぶんぶん、イナバ化粧品店へゆく
八月はさまざまに物思わする、いえ、思わねばならない月です。
わたしが思わねばならないことの一つに津山のいとこのことがありました。
いとことそのお母さんのお墓は大分豊後から遠く離れた、岡山県美作の津山市にあります。
太平洋戦争が始まろうとするころのことです。
うちのいちばん年長の伯父が広島の地で、津山からやってきた女性と出会い、結婚しました。
うちにはお金がなかったのですが、伯父は大学に進学したかったので、費用を作るために当時の
“満州国”の“新京”に働きに行きました。
そちらのほうが高い収入を得られたのだそうです。
そこで体をこわして結核に感染してしまい、敗戦の前の年に大阪の病院で死去しました。
母は私が物心ついたころから、ずっとそのことを悔やみ続けています。
うちにお金があったら・・・、栄養のあるものを食べさせてあげられたら・・・、
でも、伯父が病気にならなかったら、復学して広島の街にいたわけですから、やっぱり助からなかったかもしれません。
伯父の親友は8月6日の朝、たまたま郊外にいたのですが、お嫁さんと生まれたばかりの赤ちゃんは
家と一緒に燃えてしまいました。
わたしがそのことを母に言いますと、しばらくじーっと考えて、そうじゃね、とみじかく言いました。
戦争がなかったら、おじいさんになるまで生きていてくれたら、我が家の現在も今とはずいぶん違うものになっていたでしょう。
母にはもう一つ悔やみごとがあります。
伯父の家族のその後のことです。
伯母は伯父の死後、小さな息子と一緒にしばらくうちの土蔵(を改造した離れ)で暮らしていましたが、
やがて津山の生家に帰っていきました。
まだとても若いし再婚の機会もあるだろう、あちらのお宅の方がうちよりずっと富裕だ、知らぬ土地、
知らぬ人々の中でこれからずっと暮らしていくのは大変だろう、というのがうちの祖父母の考えだったそうです。
うーん・・・そうかもしれない。
でも、見方によってはひどい仕打ちに映るかもしれない。
“紀元節”の記念にご近所みんなで撮った集合写真がありますが、だれもが眼光炯炯として、なんか一触即発、といった感じ。
鷗外の『舞姫』にいう「悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面」、余裕のない、見た目のこわーい人たちが並んでいます。
なにより舅姑に当たるわたしの祖父母が、どちらも強烈な気性のとっつきにくい人たちでしたから、わたしがその立場だったらたぶん、こんなところにはいられないと思ったでしょう。
看病をしているうちに感染してしまっていたのですね、戦争が終わって数年のうちに、いとこも伯母も病気が重くなって、津山のおうちで亡くなりました。
どこのお宅もそうだったはずですが、戦争でわが家の人びとの運命もたいへんねじ曲がりました。
生き残った者はみんな生きていくのに精いっぱいで、いろいろな困難に対処しなければならなかったので、遠い津山で亡くなった二人のことをしみじみ話し合うことも、お参りに出かけることもなく、何十年も音信が途絶えていました。
それは十五年くらい前の夏のことでした。
母がふと、「あの子と姉さんのお墓はどうなっちょるじゃろうかね。」とつぶやきました。
「兄さんもかわいそうじゃったけど、姉さんも本当に気の毒じゃった。お墓はね、家のそばにあるんと。
それから山の上に物置があるち。そこに兄さんの書いたものが残っちょるかもしれん。」
伯父のノートや原稿は祖父が悲嘆のあまり焼き捨ててしまって、うちには何も残っていないのです。
津山の家の住所がわかる手紙のようなものもないので、それも焼かれてしまったのかと思います。
神戸で暮らしている伯母が何十年も前に行ったことがあるというので、その記憶を頼りにお参りに行ってみることにしました。
さて、津山に行くには休暇を取って、職場の皆さんに留守中よろしくとお願いしておかなければなりません。
アキさん(仮名)というきびきびした人がいました。結婚しています。
「つらいですねえ、もう、ヨメに行って辞めよう・・・」
夫も子もないわたしが情けない冗談を言ってみたりすると、
「ヨメなんかに行ったって辞められませんよっ!」
と、厳しくたしなめられたものです。
「お盆過ぎにお休みをとって津山に行くんで、そのあいだお願いします。」
と周りの人に頼んでいたら、向こうの方で何か仕事をしていたはずのアキさんが、瞬間移動でもしたようにいきなりそばに立っていました。
「麻生さん、つ、津山に行くんですか!」
「え、あ、はい、行きますけど。」
「お願いがあるんですっ!」
「はい。」
「津山にビーズのイナバさんの実家があるんです!」
「はあ。」
ビーズってなんだ?
「イナバコ-シさんのお母さんが津山で化粧品店をやってるんで、そこに行って何でもいいから化粧品を買ってください。買うとメンバーズカードがもらえるんです。イナバさんの顔がついてるんです。お金はあとで払います。」
「はあ。」
「あと、写真もいっぱいとってきてください。それから、イナバさんのお兄さんがお菓子屋さんをしてるんで、お菓子も買ってください。」
ちょっとこわいアキさんから、両手の指を組んだお祈りポーズで頼まれて悪い気はしません。
はいはいと引き受けました。
後で検索すると、BコンマちいさいZと書くユニットで、しゅっとした精悍な男の人がボーカルをやっていました。
この人が稲葉さんだな。浩志でコーシって読むのか。ふーん。
姫新線の東津山駅で降りて、化粧品店まで歩いていきました。
女優の富士真奈美さんみたいな感じのお母さんがにこにこしながら出て来て、これがいいでしょうと化粧水を選んでくれて、メンバーズカードをくださいました。
なるほど、少女漫画のタッチで描かれた稲葉浩志さんの顔があります。
お母さんがとてもうれしそうににこにこしているので、わたしもうれしそうににこにこします。
店の一角にはポスターや写真や、色紙、わたしにはなんだかよくわからないきらびやかな小物でいっぱいのコーナーがありましたので、ここが稲葉さんファンの聖地であることがわかります。
写真を撮らせて欲しいというと、一緒に写りましょうとおっしゃるので並んでぎゅっとくっついて撮りました。
横に写っているのがわたしなんですが、こんなのでアキさんはうれしいのかなあと思いながら。
「どこからおいでになったの?」
「大分です。」
「あら、この前大分でライブがあったでしょう。行かれました?」
えっ、そうなの?
自分は頼まれて来ただけで、実はこの前まで息子さんのお顔すら認識していなかったとは言いだせず、口の中でもごもごと「はあ、ちょっと忙しくて行けなくて、残念でした。」というようなことを言ってその場をしのぎました。
「ミッション完了。例のものゲットしました。」
写真を添付してアキさんに送信すると、すぐに返事が返ってきました。
「ありがとうございます‼ \(^_^)/一生の宝ものにします‼」
途中でお花を買ってバスに乗り、津山盆地をさらに東へ行きます。
このへん、ときいたバス停で降りて、地図をたよりに田んぼの道を歩きました。
向こうから地域の人と思しき年配の女性がやってきたので、△▲さんのお宅をご存知ですかと尋ねました。
「あそこの小さい山のふもとにお家が見えますでしょう。△▲さんのお宅はねえ、ご主人が雷に当たって亡くなられて、お気の毒なこと。」
ご主人というのは伯母の弟さんのことのようです。そんなことになっていたんだ。音信不通だったからわからなかった・・・。
伯母といとこのお墓は家の裏手の小山の中腹にありました。
△▲家の人に導かれて坂道を登っていくと、あれ?この地形は・・・。
草木が茂り、輪郭もおぼろですけれど、ここは小さな山城の跡のようです。
てっぺんの「物置」が建っているのが本曲輪、そのほかの曲輪の平らな地面が墓地や畑になっているのです。
中国山地の花崗岩が風化した細かな土が、歩くにつれてさらさらとこぼれ、そのためか古い墓石たちは少しずつ前のめりに傾いでいました。
墓地の一角に伯母といとこの小さなお墓が、陽を浴びてひっそりと並んでいました。
享年五歳の童子の墓石にはお地蔵さんが浮彫りになっています。
お花を供えて、やっと来ました、ずいぶん遅くなりましたとお参りしました。
降りがけの道の傍らの石塔に近づいてみますと、それはこの家にいた牛や馬たちの墓なのでした。
そのときわたしはこの人たちがこの小山に暮らしてきた歳月に触れたような気がしました。
お母さんのうちの人たちに看取られて、お母さんと一緒に、おじいさんやおばあさん、もっと遠い世の人びとと同じ土に眠る。
いとこのお墓はここでよかったのだと思います。
うちに帰ってこのようでしたと母に報告しましたら、「あんたはうちの戦後処理をしてくれるね。」
と言われました。
職場に戻って化粧水とメンバーズカードとお菓子を取り出しますと、アキさんがまた瞬間移動して、
かがやく笑顔でそばに立ちましたので、ねんごろに手渡しました。
それから十年たったころ、アキさんは病にたおれ、お子さんたちを残して亡くなりました。
「一生の宝ものにします‼」
B'zあるいは稲葉さんと聞くたびに、返信メールのキラキラのデコレーションを思い出します。
軽々と担架に運びゆくみれば人死ぬことのなんぞたやすき
床の辺に妻が生けたる菜の花のにほへる見れば家しこひしも
古後菊徳『野火』
麻生由美
大分県出身 1978年まひる野入会
歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)
次週予告
8/24(金) 12:00更新 まひる野インフォメーション
お楽しみに!