大分豊後ぶんぶんだより②かかりむすびの人びと
16歳になる年の春、天然記念物の岩山のふもとを離れ、
67㎞彼方の県都大分市の高校に進学しました。もう何十年も昔のことです。
ある日古文の授業で、かかりむすびを復習しました。
苦手な方のために簡単に申し上げますと、古文によくみられる現象です。
文中に「ぞ・なむ・や・か・こそ」という係助詞のどれかを挿入して、
普通は終止形で結ばれるはずの文末を、連体形や已然形(*)で結んでしまうというものです。
「名惜し。」→「名ぞ惜しき。」「名こそ惜しけれ。」のようになります。
文語文法の参考書には「係り結びの法則」と書かれていることがありますが、
むかし「まひる野」には「法則なんかではない!修辞だ。」と憤っている方がおられました。
どなただったか覚えていないのですが、私はこの方に賛同します。
(* いぜんけい、と読みます。すでにそうなっていることを表す活用形で未然形と対になっていました。
口語ではなくなってしまいましたけど。)
さて、そのとき私は隣の席の女の子に、「うちのおじいちゃんたちは、眼こそ痛けれとか、
そりゃ猫でこあれ(こそあれ)とか言ってたよ。」と囁きました。
その後の休み時間のことです。
なんだか太陽が翳ったようにいきなり教室が暗くなりました。
顔を上げると、わっ、たいへん!
大勢の人が押し寄せて、べランダ側、廊下側、教室のすべての開口部をふさいでいるのです。
「このクラスにかかりむすびを使う人がいるってほんと?」
「だれ?どの人?」
隣の席の女の子が私の方を示しました。
「あっ、あの人だって!」
「すげー!」
何が?
「何か話して!」
うろたえながら、うちの祖父母がそういう言い方をしていただけで、自分は使っていない、
と説明すると、群集はつまらなそうに散っていきました。
私なんかを見物するためにあんなに大勢の人が集まってきたのは、
後にも先にもこの一回だけです。ああびっくりした・・・。
大分県の中では豊後よりも豊前の人びとにより多く「こそ~已然形」のかかりむすびは
残っていたようです。
あ、大分県というのは昔の豊後の国全部と豊前の国の宇佐郡・下毛郡(*)からできているのです。
県版の文法副読本のコラムには、こんな用例が載っていました。
豊前下毛郡の古老から採取したものだそうです。
「わしが若え時ん苦労ちゅうちから、人こそ知らね忘るる間むねえ。」
(私が若い時の苦労と言ったら、他人は知らないだろうが忘れる間もない。)
「まるで百人一首・二条院讃岐の『わが袖は塩干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし』
のようですね。」という編集者のコメントつきでした。
*「下毛郡」は「しもげぐん」と読みます。福岡県側にある「上毛郡(こうげぐん)」と対になっています。
大合併で中津市に編入され、郡の名前はなくなってしまいました。
ちなみに、今や日本中どこでも買える大分の麦焼酎「いいちこ」ですが、
「大分の方言で、いいですよ、の意」と解説されています。
私は長年、このことばを「いいちこそ言え」のしっぽが切れたものだと考えていました。
お年寄りが相槌を打つとき「そうちこ、そうちこ!」(そうですよ、そうですよ!)といいますし。
この文章がネットにアップされればアラビアでもフエゴ島でも(日本語が読める人なら)
閲覧できるのだから、不確かなことを言ってはいけないと、67㎞彼方に車を走らせ、
県立図書館におこもりして確認しました。
そうでした。そうちこ。
肝心の結びの部分が消失しているので「むすびか?」と追及されそうですが、
いちおう結ばれていたのが、なくなったのですよ。
閲覧した資料の中には、「てーげーこらえちきたが、今こそゆうたれ!」
(ずいぶん我慢してきたが、今こそ言うぞ!)
というおそろしい用例もありました。
「知っちくさ!」というのもあります。
「知ってこそあれ!」つまり「知るもんか!」「知らないぞ!」という反語です。
おや、…これは今でも腹を立てたときにたくさんの人が使っていますね。
叩きつけるように発声するのが実践のポイントです。
私を見物に来た同級生たちの中にも、かかりむすびとは知らずに口にしていた人が
いるかもしれません。
さて、かかりむすびが残った土地が、大分県だけのはずはないと思って捜してみました。
沖縄では「こそ」が古代に消滅してしまったそうです。
「命どぅ(=ぞ)宝。」は有名ですが、体言止めで文末がきえてます。
結びのあるものを探したら「汗はてどぅ漕ぎゆる。」という琉歌をみつけました。
やはり連体形はウ段なのですね。
「が(=か)~未然形」もあるそうです。未然形?とびっくりしたら「未然形+む」のおしりが
消失したのだそうです。なるほど。
沖縄の言葉を考えるのは、いっかい、奈良時代まで遡ってそこからV字型に現代まで
戻ってくる感じです。
とても興味深い。終活だあといって『おもろさうし』を二束三文で売るんじゃなかった・・・・。
さらに方言地図で確認したら、西日本各地の深い山々やさびしい海岸のあたりに
たくさんマークがついていました。
東日本では八丈島。ここは古代の東国のことばのおもかげをとどめているので有名なのですね。
驚いたことに三浦半島にたくさんのマークが。
三浦のかかりむすびって…?聞いてみたい!どなたか話せる人はおられませんか。
これは20世紀末の調査なので、自分は言わないけど、ひいおばあちゃんが言ってたのを
覚えている、という人はまだ各地にいらっしゃるのではないでしょうか。
その土地のことばの文脈の中で、生きたかかりむすびを聞いてみたいものです。消失しないうちに。
大分もずいぶん危ないのです。
下毛郡山国郷にて
左右に立つ峰のあひだの青空に雲はかがやく雲の山国 麻生由美
麻生由美
大分県出身 1978年まひる野入会
歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)
※来週の「まひる野インフォメーション」はお休みします。
次回予告
まひる野歌人ノート③ (担当:北山あさひ)
7/6 (金) 12:00更新予定
次回もお楽しみに!