マチエールの北山あさひです。「まひる野歌人ノート」はまひる野の注目歌人を私の独断と偏見で紹介するコーナーです。第一回目はマチエールの加藤陽平をご紹介します。読んでいて決して楽しい気持ちにはなりませんが、なんだか癖になる不思議な歌人です。長くなってしまいましたが、ぜひ最後までお読みください!
まひる野歌人ノート①加藤陽平
ゴーヤーを食いし器に玉子豆腐載すれば線香花火のにおいす
何かの西わが家の西か駅の西か忘れしが小さき料理屋ありき
眉の上の汗はどっちのタオルでふくべきか吾にしかわからぬ話
部屋の前に水の入りたる箱おかれ吾はおちつかず四月の夜更け
ゴーヤーを使った料理といえばゴーヤチャンプルーが思い浮かぶけれど、まあ他にも和え物とかサラダとか、色々ある。それを食べ尽くしたあとの汚れた器に、つやつやとした玉子豆腐を載せる。自分がきれいなものを汚していることに気が付かない、あるいは気にならない主体――その無頓着ぶりにほんのりと嫌悪を感じた瞬間、線香花火のようなにおいがふと立ち上がる。夏のセンチメンタルな思い出を呼び覚ますような「線香花火」というモチーフも、句跨りのせいか「線香」のほうが目立って妙に陰気だ。消え残る線香の煙のように、読後はほのかに気持ち悪さが残る。
二首目、酩酊したときのおぼろげな記憶をたどっているのだろうか。「何かの西」なんていくらでもある。ほとんど無意味なヒントに固執する様子は滑稽で、もしかしたらまだ酔っぱらっているんじゃないかとすら思う。中身は無いに等しいけれど、誰かに「ちょっとこれ見て」と言いたくなるようなおもしろさがある歌。定型をこぼれながらぐいぐい進んで結句でぎゅっと押し込み、何食わぬ顔をするスタイルは加藤の特徴のひとつ。
三首目、「どっちのタオル」ということはタオルが二枚あるということ。タオルAで汗を拭く箇所とタオルBで汗を拭く箇所はこの主体の中ではだいたい区別されているらしいが、「眉の上」は果たしてAかBか。眉にも右左があるのでそれで分ければいいようなものだが、迷っているからにはタオルA/Bの区分けは左/右ではないらしく、上/下でもなさそうだ。本当に、こちらにはわからない話である。作品は発表されれば作者の手を離れて読者のものになる、とはよく聞くけれど、加藤の歌はいっこうにこちらのものにならない。それに、あまりこちらのものにしたくないような気もする。
四首目、そもそも「水の入りたる箱」って何?なんで部屋の前に置かれてるの?おまじない?魔除け?「吾はおちつかず」って魔除けで除けられているのはあなた?読者は四月の夜更けの暗い廊下に取り残されるばかり。
名古屋在住、無職。両親と姉の四人暮らし(以前まひる野誌に掲載された文章によると姉とは不仲)。引きこもりがちで、歌の舞台の大半は家の中。毎月の詠草で執拗に描かれるのは、そんな閉塞的で悶々とした日々だ。過去の挫折、将来への絶望感、家族に対する鬱屈、そこに垣間見える蜃気楼のような安らぎが、ないまぜになって狭い住居のあちこちにわだかまる。
いとおしき工作のごとく背をまるめ切手の点線いくたびも折る
階段を下る時ふと英雄的気持ちになりしが母には告げず
AVに流れおるジャズの哀愁を唯一の善として射精しつ
もう吾に夢などなければユーチューブに他人の動かすマリオを見おり
救いがあるごとくに十二年前を思う酉年は永久に奇数年
鋏・糊の入りたる箱を道具箱ととっさに吾の呼びしは悲しも
指に触るる羽二重餅の中の黒豆はうさぎの骨のごと悲しきかも
菜の花をゆでし湯をすてし流し台はしばらく青し三月の夜
切手の点線を必要以上に折る、どこかで見た英雄の姿を思い出しながら家の階段を下りる、暇つぶしのような自慰、Youtubeの画面の中で跳びはねる誰かのマリオ――。
自分の心と行動を見つめる時間が異様に長い。水のようにさらさらとは流れてゆかず、粘着性をもちながらゆっくりと流れていくような時間の感覚に胸苦しさを覚えると同時に、その淀みの中にくっきりと浮かび上がる主体の姿から目を離すことができない。
加藤がすごいのは、モラトリアムや自己不全感にいっさいの美を見いださず、かといって自虐にも落とし込まないところだ。それらにはまるで無関心。あくまでも我が道をゆく。
羽二重餅や菜の花の歌は、加藤にしてはめずらしく繊細さと抒情がストレートに表現されている。演出は最低限にとどめつつ、体感や実景からこつこつと歌を立ち上げる。歌人としての体幹の強さを感じる二首。
最後に、加藤の真骨頂である家族の歌を紹介したい。
キッチンよりながむれば子を亡くしたる夫婦のごとく父母は向かい合う
赤飯を毎日たいてもいいですかと母は言いおり危うかるべし
不吉なることを思いながら手を洗えば鏡の奥を母は右へ行く
爪切ってから行くと母に返事せしはなにやらよろしき暮らしのごとし
階下より「ただいま」と味方求むるごとささやける父をしかし憎みぬ
水滴の音は母だけの音なれば今父がうつわ洗えるは憎し
電灯を換えたくらいで「今日からもう快適だよ」と言う父悲し
ただいまをまだ言わぬ父にキッチンの吾もわが母も息をひそめおり
悲惨なるわが家と思いて一階に下るればつくえに母の湯のみあり
今日風呂に入るは私と母のみと思えば何やら心中めくなり
鳥の図鑑買いにゆく道よ風強しよその親子はパンのはなしせり
母への屈折した感情と父への憎悪、というテーマももちろんあるが、加藤の家族詠で重要なのはそれらの背後にある巨大な喪失感だ。道すがらパンの話をする穏やかな親子の姿は、いつのまにか失ってしまった、あるいは自分が失わせてしまったかもしれない「家族」の姿でもある。
薄暗い家、洗面所の鏡、赤飯の炊けるにおい、食器を洗う母、替えたばかりのまぶしい電灯、机の上の母の湯のみ、玄関に佇む父、二階へ続く階段、廊下、パチパチと爪を切る息子――。事件発生前夜のような緊張と弛緩を繰り返しながら、家族は家族を続けるよりほかない。
父母は結婚記念日とは言わず吾も訊ねずただシャッター押す
※短歌は過去三年間のまひる野誌から引用しました。
来週は山川藍さんのコラム第一回です。5/8(火)更新予定です。お楽しみに!