水上をはしるバイクの航跡のまひるに消えて藍はふかまる 加藤孝男
新月が水田にひとり落ちている村抜けざりしわれを照らして 市川正子
自転車に笹百合のせてゆく人をはちみつ色の秋日がつつむ 滝田倫子
自らの負ひ目ゆゑにや横車押しくるひとにけふも向き合ふ 寺田陽子
いんげん豆煮る火をとめて夕立のあとにかかれる虹を見にゆく 小野昌子
後ろから突き飛ばさない理科室の脳や目玉の標本が好き 麻生由美
了(しま)いおく悲しみつれだすは誰ならん知らん顔する夕顔たちよ 齋川陽子
樹の上の油蝉の声遠退きてわが頭の中に虫鳴きはじむ 齊藤貴美子
エレベータに犬をつれたる少年が乗りきて犬がわが手を咬める 松浦美智子
閉館に照明おとす水族館ペンギンは平たきまなこを閉ざす 庄野史子
露天風呂に半身委ねて曇天を仰げば不意に悲しみは来ぬ 高橋啓介
生(なま)醤油のボトルしぼれば悲しげにキューッと音立つ秋の厨に 岡本弘子
気負ひなく憂ひもあらず七錠の制癌剤(ゼローダ)をのめば新たなる夏 升田隆雄
いきりたつ気魂全身に漲らせきらめきている野猿の毛並 中道善幸
過労死を出してはならぬといふ発言に頷きにつつ速記とりゆく 西川直子
下弦の月のぼり始めつティファニーの指輪通してはつか安らぐ 柴田仁美
二十代のわれや勇みてオータニの廻るラウンジに聖火望みし 小栗三江子
何もなし何もなからば影もなしその平原の地こそ影なれ 吾孫子隆
鉢水に溺れ死にたるかなぶんを見しより水を張らずすて置く 久我久美子