〈マチエール〉
ほんとうには壊れぬわれと知りながら熊の眠りに一年を過ぐ 後藤由紀恵
手術室へ母を送りてのちに居る喫茶室にてビートルズきく 富田睦子
「親子丼」という言葉のやるせなさきみの苦笑に教えらるるも 米倉歩
たれもたれも鞄を膝にのせている鞄の底を他人に見せて 染野太朗
渋滞に市バスが二台すれ違うむこうのバスは学生多し 小島一記
ひこうき雲見つけた秋の大空に広がってゆく笑いの微粒子 木部海帆
自由席なのに座れたこと嬉しもういいことはこのあとないね 山川藍
柔らかい黒土のなかへさよならも言わずに球根並べおくなり 小瀬川喜井
間違いを時に糾さずこっそりと直してわれの怠惰をなせり 佐藤華保理
午後の陽が白いカーテン透かしおり去り行く人の薄いほほえみ 宮田知子
螺旋描く林檎のようにするするときみがきみより遠くなりゆく 稲本安恵
風邪のため早目に入りたる寝床にて風呂の音など聞くは楽しも 加藤陽平
絶え間なく生徒が増える夢の後、事務処理の量を思って二度寝 倉田政美
ビール瓶ころがすごとくとりあえずごりっと首をひねられており 大谷宥秀
課長代理って課長と呼べばいいかしらホワイトボードにあさかげほのか 荒川梢
フタバスズキリュウとふ文字を追ふときに視界の中を横切るキュウリ 田口綾子
まだ人でいたいと額に手をあてる我慢も過ぎれば角が生えそう 小原和
青天【あおてん】に拡声器【メガホン】で張るこの声が聞こえていますか豚肉野郎 小林樹沙
明るくて冷たい浜辺 持ちきれぬものとして足跡を残せり 立花開
思い出を思い出したい小雨の日ドン・ガバチョしか出てこないまま 伊藤博美
<十九人集>
いきものは殺さぬ老母【はは】が虫刺され薬を常に持ちて山に棲む 坂田千枝
説明書の最後に書かれてあることば「死んだら土に返して下さい」 佐藤えみ子
老いひとりゆつくり歩むさくら道追ひ越しがたく歩調をゆるむ 佐藤圭子
真白な雲映りゐる水たまり形乱して子雀あそぶ 袖山昌子
つついても起きないわれを覗き込む虎顔、豹顔二匹の猫が 相原ひろ子
群れて飛ぶ椋鳥にまたむくどりが加わり空を暗めて飛べり 齊藤愛子
県内に戻りて嬉しふるさとのなまり聞きつつ大根を買ふ 鈴木美佐子
脚二本あさの草野にあそばせて見あげれば空はぎっしりと蒼 伊東恵美子
ゲーセンで遊ぶここちに爺婆も運転免許の講習受ける 飯田世津子
これ以上母の謂ふこと聞けぬと言ふ音階のなかハとイが背伸びす 大野景子
<作品Ⅱ>
身辺の整理してると笑みて言ひまた来るからと別れ行きたり 豊田麗子
夕暮れて変りなく鳴く虫たちに雑草抜きたることを詫びたり 藤原つや子
車椅子の女性額に汗をしてふるえる手にて「希」の字を書きぬ 田中和子
暗号のような女子高生達の会話にわが耳すば立ちてゆく 正木道子
娘二人立ち合いくれしが安堵してごめん駅よりそれぞれ帰りぬ 和田英男
足もとに咲く韮の花のぞき込む結節腫【ガングリオン】の手術終へ来て 雨海千恵子
女偏・好妙始などよき漢字嫌妨姑は失礼と思ふ 大田綾子