布施(dāna)の行いは、古代のインド社会より以来、つねに称賛される功徳(puya)多き善行であり、仏教でも六波羅蜜(施[せ]戒[かい]忍[にん]進[しん]禅[ぜん]慧[え/ね]。方便[ほうべん]願[がん]力[りき]智[ち]を加えて十波羅蜜)、四摂法(布施、愛語、利行[りぎょう]、同時)の筆頭に、または、六随念(念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天)の中のひとつとして数えられます。『望月仏教大辞典』は「布施」として、ほぼ二頁を用いて詳しく解説しています。ここでは、それを要約しておきます。

 

<定義>『望月仏教大辞典』は、布施を定義して、無貪(*alobha)の心を以て、仏および僧、ならびに貧窮の人に衣食等を施与する、とします。これは「布施はもと、仏が優婆塞(= 男性信者)等に対して勧進せられたる行法にして、すわなち、衣食等を大徳、および貧窮の人に施与するを、その本義となす」ということです。

 

<布施の功徳、布施の対象、施物>について、『中阿含経』第三十、福田経「世中に(= 聖者)・無学(= 阿羅漢)あり、尊ぶべく奉敬すべし。彼れ(= 僧は)、能くその身を正しくし、口・意も亦復た然り。居士(すなわち、給孤独長者)よ、是れ良田(= 福田puṇyakṣetra)なり、彼に施せば大福(puṇya)を得ん」、『中阿含経』第十四、王相応品、大天㮈林経第三「月の八日十四日十五日(月の前半の良き日)に布施を修行し、諸の窮乏の沙門梵志、貧窮の孤独遠来乞者に施すに、飲食・衣被・車・華鬘・散華・塗香・屋舎・床褥・氍氀綩綖・給使・明燈を以ってす。」(vol.1,514b10-13)等とあります。布施の対象者となるのは、ここでは僧、そして生活に困窮せるお方です。

 

<福田のいろいろ>布施の功徳は誰が受けるのかといえば、「塔寺、仏、辟支仏(= 縁覚)、阿羅漢を(財物をもって。筆者の補い。以下同じ)供養するは自ら身のため、衆生に施与するは他者のため、そして(塔寺等に)布施して(そのお下がり、功徳 ? を)人に与えるは彼我のため(『阿毘曇甘露味論』巻上、布施・持戒品)とあり、布施の対象が、仏菩薩阿羅漢等の場合の福田は「大徳田」、老病聾盲等の場合は「貧苦田」と呼ばれます。(後に、貧苦田、大徳田は、悲田、敬田と呼ばれ、悲田院に敬田院・施薬院・療病院をあわせて四箇院となります。)

 

<布施のいろいろ>布施には法施と財施、内施と外施、内外施(『菩薩地持経』第四、施品)、法施に世間法施と出世間法施(『大般若経』第四百六十九)があるとします。このうち「内施」は、仏さまがその前生、すなわち菩薩として修行時代に、身命を惜しまず、身を捨て施与したことをいい(『本生経』、『菩薩地持経』第四、施品)、いわゆる、波羅蜜行としての布施となります。また「法施」は、自ら法を慳まず、他の爲に正法を演説し、彼等をして功徳利益を得しむる(『増一阿含経』第二十声聞品)をいう、とあります。

 

<法施の功徳としての涅槃>「財施はただ能く世間の果を得るのみ。人天の楽果は曾(かつ)て得(う)るも還(ま)た失(しっ)し、今暫く得と雖も而も後と必ず退す。もし法施を以てせば、未だ曾て得ざるものを(自ら)得。いわゆる涅槃なり。定んで退の義なし」『大般若経』第五百六十九。これは、在家信者を含めての教説であるのか、興味が持たれます。また、財施には望みえない、法施の勝利(すぐれた功徳anuśasa)として、『金光明最勝王経』第三は(1)法施は自他を兼ね利する、(2)衆生をして三界(= 六趣の苦)を出でしむる、(3)色の増長とともに、法身を浄む、(4)法施は無窮であり、尽くることなし、(5)無明を断ずることができる、の五つを明かします。

 

<無畏施を加え、三種の布施とする>『大智度論』第十四等は、布施に三種ありとして、無畏施を加えています。また財施、法施の内容も、より詳しく説かれるようになります。

 

「持戒自𢮦して一切衆生の財物を侵さず、是れを財施と名づく。衆生(にして彼を)見る者、その所行を慕い、また爲に説法して其をして開悟せしめ、また自ら思惟して我れまさに堅く浄戒を持し、一切衆生のために供養の福田と作り、諸の衆生をして無量の福を得しめんと。是の如き種種を名づけて法施と爲す。一切の衆生、皆な死を畏る。戒を持して害せず。是れすなわち無畏施なり。」『大智度論』第十四

 

「(此世他世楽施は略説するに九種あり、いわく)財施と法施と無畏施なり。財施とは勝妙清浄にして、如法に慳垢、蔵積垢を調伏するが故に布施を修行す。慳垢を調伏せば執着心を捨て、蔵積垢を調伏せば受用執着を捨つ。無畏施とはいわく、師子虎狼・王賊・水火等の種種の恐怖を救いて得度せしむ。法施とは不顛倒に法を説き、具足して法を説き、人に禁戒を授くるなり。」『菩薩地持経』第四施品

 

「法施は他の心を利益し、法施に由るが故に、他(= 他者)の聞慧等の善根生ずることを得。財施は他の身を利益し、無畏施は他の身心を利益す。復た次に、財施に由りて悪に向かうことある者を引いて善に帰せしめ、無畏施に由りて彼を摂して眷属と成らしめ、法施に由りて彼の善根を生じ、および成熟し解脱せしむ。」梁訳『摂大乗論釈』第九 

 

「無畏施とはいわく、師子虎狼・王賊・水火等の種種の恐怖を救いて得度せしむ」は、まさに、無畏施者たる観自在(観音)さまのごとくをいいます。また財施は以前のように在家に限らず、ここでは、菩薩必須の布施行となっています。

 

<清浄施・究竟施・無住無相心施と布施波羅蜜>布施に十法(『宝雲経』第一)、十種(『旧華厳経』第十二、無尽蔵品)三十七種(『布施経』)、九種(『瑜伽師地論』第三十九、施品)を数える仕方があり、それぞれに、清浄施、究竟施、無住無相心施、清浄施を最後とします。すなわち、布施は施者・受者、および施物ともに清浄なることを要し、之に由りて方に大果報を得するのです。

(「施人、受人、財物不可得なるが故に、能く檀那波羅蜜を具足す」『大品般若経』第一、序品)。また、布施に浄・不浄ありとして、怖畏施、求報恩施は不浄、敬重心施、慈悲心施を浄なる布施とする(『弥勒菩薩所問経論』第六)ものもあります。

 

<布施の定義・布施の本質>

ここに至って、布施の本質は、清浄であること、すなわち、無貪という心の働きとして理解されるになります。「飲食等の物は布施に非ず。飲食等の物を以て与うる時、心中に生ずる法(= 心所法)を捨と名づく。慳心と相違す。是れを布施と名づく。」『大智度論』第九、「施は無貪、および彼の所起の三業(身口意の三つ)とを以て性と爲す。」『成唯識論』第九。

 

自らの所有物への意識を捨て、お人に利益に役立てたいとする心の働きを「布施」とするに至るのです。わたしたちは、布施の行いを繰り返し、般若の空智を身に付けて、布施をその完成形である布施波羅蜜へと転換することを願うのです。不可得、すなわち、布施という行いが成立するための必要条件である行為主体(施人。私は何かを誰かに与えたい、そして布施により功徳を積みたい)・行為対象(受人。誰かに与えたい)・施物(何かを与えたい)、その三つへの事実誤認(実体観念、実在感)を解消した状態を「不可得」というのです。三輪清浄の布施 

 

གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第36回「巡りめぐり清らかな輪をつくって」訳・文:野村正次郎2022.05.08を参照いたしました。

 

(追加情報)

阿含・ニカーーヤに説かれる財施、そして施者の変遷、そして菩薩の布施、仏伝文学とジャータカ、大乗経典、特に『般若経』における布施の二分化、『宝積経』における財施に対する法施の優位性など、「布施の変容について」という加藤純一郎氏の論文があります。(2025/11/13補)