放逸なることなかれ 八正道の実践

 

『仏教の根本聖典』第五篇 教誡説法、第三章「放逸なることなかれ」pp.186-190は五節からなり、善き法の中にありて不放逸(ふほういつ)は最も肝要であることを、それぞれに譬喩をもって説いています。第二節(146 [7] Rā)は、歩行する生きものの中で象の足跡が最大、第三節(146 [8] Canda)は、夜空に輝く星々の中で月の光は最も明るく、第四節(147 [9] Suriya)は秋天にありて、蒼天にのぼる日(= 太陽)が最も輝き、第五節(147 [10] Vattham)は、糸織物の中で、カーシ(迦尸)の都において造られた衣が最高級であるように、あらゆる善き法(kusala-dhamma)の中において、不放逸(appamāda)こそが根本(mūla)であり、最勝(agga)であると説かれるというのです。譬喩はとてもインドらしく、面白いです。以下、増谷文雄先生による、第一節の全文をご紹介いたします。

 

南伝 相応部経典 45 139-148 不放逸品

(Chapter V. Appamādavaggo pañcamo 139 [1], SN, vol.6, p.41ff.)

 

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(Sāvatthi- 舎衛城)の祇園精舎にとどまり住しておられた。その時、世尊は、比丘たちを呼び、かように説かれたことがあった。

 

「比丘たちよ、この世の中に生けるものは、さまざまである。無足のものがあり、両足のものがあり、四足のものがあり、多足のものがある。あるいは意識あるものがあり、意識なきものがある。かように、さまざま生きとし生けるものの中にありて、覚りしもの、如来こそは最上であると説かれる。比丘たちよ、それと同じように、世の中に道はさまざまあれど、それらはすべて、善に心を専注して去らしめざること、すなわち不放逸をもって根本とする。されば、さまざまの善き法(kusala-dhamma)の中において、不放逸(appamāda)こそ最大(agga)であると説かれる。

 

比丘たちよ、かくて、放逸ならざる比丘においては、八つの正道を修習し、そを実現するであろうこと、期して俟つことができるであろう。彼は、すべての世のかかわりを離れ、貪りを去り、煩悩をすてて、人生の正しい見方をうちたてることができる(正見)。一切の思いを正しい目標に集中することができる(正思)。すべて理にそむける言葉をさけて、正しい言葉を語ることができる(正語)。一切の邪まの行いをやめて、清らかな行いにつくことができる(正業)。正しからぬ生業をいとい捨てて正しい生き方をすることができる(正命)。かくて、ここに正しい努力が集中され(正精進)、正しい心構えがあり(正念)、ふたたび揺らぐことなき心を確立することを得る(正定)とき、八つの正道は実現せられるのである。

 

比丘たちよ、かくのごとくにして、放逸ならざる比丘は、かならずや、八つの正しい道を実現するであろうこと、期して俟つことができるのである。」

 

(補遺)

正見をはじめとする八正道に対する訳文は、増谷文雄先生による補いの説明のようです。

 

不放逸(apramāda専心)は次のように定義されます。

 

専念とは何か。精励をともなった貪らないこと・憎悪しないこと・愚かでないことに依拠する、善なる諸法(要素)の修習であり、有漏の諸法(要素)から心を監守することである。そしてそれは世間的・出世間的な〔目的の〕成就を円満させ完成させることをはたらきとする。

Bauddha Kośa五位七十五法関連用語の定義的用例集を参照

 

vayadhammā sakhārā / appamādena sampādethāti //

ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā // DN ii.155-156.

諸々のサンスカーラ(諸行)は無常である。常に気をつけて修行を完成させなさい。これが如来(修行を完成させてありのままに理解した人 = 仏陀釈尊)の最期のことばであった。

鈴木隆泰「『諸行無常』再考」を参照

 

中道は、不放逸とも言い換えられるようです。