善・不善・無記の三性 

 

<定義・その一>

『成唯識論』巻第五、太田本p.108.

「能(よ)く此世(しせ)と他世(たせ)に(自他を)順益するに爲(おい)て、故(ゆえ)名づけてと爲す。」(竹村[2009]164)「人天の楽果は、此世には能く順益を爲すと雖も、他世に於いてするのは非ず。故に善と名づけず。」

 

竹村[2009]:竹村牧男『成唯識論を読む』春秋社

 

「能く此世と他世に(自他を)違損するに爲て、故(ゆえ)不善と名づく。」(竹村[2009]165)「惡趣の苦果は、此世には能く違損を爲す雖も、他世に於いてするには非ず。故に不善に非ず。」

「善と不善との益し損する義の中に於いて記別すべからざるが故に、無記と名づく。」

 

<補説>人天の楽果、惡趣の苦果はともに、総じて無記となります。人としての有情である私の身心である五取蘊(= 苦を自性とする)は、有爲であり、有漏であり、善なる行いをすれば、悪なる行い(= 不愛の果を招く)もする。ですから、無記とは、善である、不善であるとは一方的に決められない(「記別すべからざる」)、必ずしも無記が“中性”というわけではない、ということか。

 

<不善の分類>

勝義不善、自性不善、相応不善、等起不善 『大毘婆沙論』巻第五十一、『倶舎論』巻第十三「勝義不善とは、いわく、生死の法なり。生死の中の諸法は皆な苦を以て自性と爲し、きわめて不安穏なること、なお痼疾の如くなるに由る。」

 

<補記>説一切有部においては、第一義(= 勝義)には、総じて生死有爲の諸法を以て不善とし(= 勝義不善)、別して有漏法の中には、無慚、無愧および三不善根を立てて不善の体(自性)とし(= 自性不善)、諸の心心所は之(= 無慚、無愧および三不善根)と相応して(= 相応不善)不善の身(業・)語業(= 等起不善)を引起し、以って、不可愛の果を招く(すなわち不善)となせるものを知るべし。『望月仏教大辞典』より。

 

<定義・その二>

『大毘婆沙論』巻第五十一「もし法、巧便の所持にして、能く愛果を招き、性安穏なるが故に善と名づく。」「もし法、巧便の所持に非ずして(= 道諦を除く)、能く不愛の果を招き(苦・集諦の一部)、性不安穏なる(= 滅諦を除く)が故に不善と名づく。これ総じて、苦集の少分(苦・集諦の一部)を顕わす、すなわち、諸の悪法なり。」

 

<補説>苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦のうち、苦滅諦、苦滅道諦以外で、不愛の果を招く苦諦、苦集諦の一部分を不善という。それがすなわち、「能く此世と他世に(自他を)違損する」ということの意味です。

 

<定義・その三>

『大毘婆沙論』巻第九十四「不善とはいわく、一切の煩悩なり。善法を障(さ)うるが故に、説きて不善と爲す。これ、善に違反するの義なり。」

 

<補記>煩悩(・随煩悩)のすべて(= 定義・その三の「不善」)が悪かといえば、実は必ずしもそうではない。煩悩(・随煩悩)の中には、第七末那識とともにはたらく場合のものがあり、その性質は有覆無記とされ、悪ではない。つまりは苦果を招くものではないとされているからである。しかし、煩悩(・随煩悩)の大半(すなわち、半分以上)は、悪としてはたらく。竹村牧男「人生の苦を見つめて」より。

 

<煩悩の定義>身心を「煩(わずら)わし悩(なや)ませる心所(心作用)をいいます。『成唯識論』巻第四、太田本p.90.「此の四(我癡、我見、我慢、我愛)は、常に起りて、内心を擾濁し、外の轉識をして、恒に雜染成らしむ。有情、此に由りて生死輪迴して、出離すること能わず。故に煩惱と名づく。」

 

意識以下において善・不善・無記のいずれにも常時にはたらいている自我意識(「私は~をした」とする、あらゆる場合にはたらいている「私は実在する」との染汚の自我意識)である、末那識(意という名の識manonāmavijñāna)とともにはたらく場合のある煩悩は、有覆無記の貪、痴、慢、悪見(その場合は、我見[薩伽耶見]、我癡[無明]、我慢、我貪[我愛]と呼ばれる)、そして(随煩悩として)有覆無記の、掉挙、惛沈、不信、放逸、失念、散乱、不正知がある。(すなわち、大随煩悩のことです。)

 

ついで、「有覆と染汚」について考え、理解を深めます。最終的には「不染汚無知」(所知障)を目指します。