増谷文雄『仏教の根本聖典』第五篇・教誡説法、第九章pp.218-223は、阿那律(あなりつ。Pāli. Anuruddha アヌルッダ)尊者とお釈迦さまとの対話、そして教誡です。出典は、漢訳『増一阿含経』巻第三十一(五)とあります。大正蔵では、No. 125, vol.2, 718c17-719b19です。

 

まず、阿那律尊者は失明するも、天眼通を獲得するに至った事情が語られます。あらましは以下の通りです。

 

尊者は、釈尊の説法の衆中において睡眠することあり、それを悔いて「終に(= 決して)如來の前に在って坐睡せず」と誓い、以後、曉に達しても眠らず精進に精進を加えます。お釈迦さまは「中道」(不放逸)の教誡を示されたのですが、尊者は遂に失明してしまいます。(でもご心配なく。)失明するも、天眼を獲得し、修行生活になんらのさわり(瑕穢)はありませんでした。さて、

 

あるとき、阿那律尊者は法衣のほころびを縫おうとして、しかし通力を用いることなく、「得道せる阿羅漢にして、どなたか我がために針に糸を通してもらえないか」と心中にて考えました。それを天耳清淨でもって理解した釈尊は、「汝、針を持ち來り、吾れ汝がために糸を通さん」と声を掛けます。阿那律尊者は、どなたか世間にあって、福徳(puya功徳)を求めんものに糸を通してもらえないかと願ったまでであって、「(お釈迦さまは)如来の身、真実法の身にして、復た更らに何れの法(dharma善法、善い行い)をか求めんと欲するや」と問います。それに対してお釈迦さまは答えます。

 

出家者は、みずからの法衣のほころびはみずから縫い、修繕し、何一つをも無駄にせず、大切に用いていたのです。ここでのお伝えしたいのは以下の一節です。

 

「アヌルダよ、如來は、六法において厭きて足ることなし。その六とは何であろうか。一には施(= 布施)である。二には教え誡(いまし)むること(*deśanā)である。三には忍(= 忍辱)、四には法を説き義を説くこと、五には衆生を愛護すること、六には(この)上なき正眞の道を求むること。」

 

世間求福之人無復過我。如來於(b04)六法無有厭足。云何爲六。一者施。二者教(b05)13誡。三者忍。四者法説義説。五者將護衆生。(b06)六者求無上正眞之道。是14謂阿那律。如來(b07)於此六法無有厭足。

 

すなわち、さとりを開かれたお方であっても、すすんで「世間にて福を求むるの人、復た我に過ぎたるはなし」(世間求福之人無復過我)というのです。

 

本経はまとめの偈、そして教誡をもって結ばれます。

 

「この世にあるさまざまな力のうち、福(さいわ)いの力(= 福徳puṇya、善法)こそ最も勝れている。天界にも人界にもこれに勝るものはない。この福(さいわ)い(= 福徳puṇya、善法)に由って仏道(= 菩提)を成ずる。」

 

世間所有力 遊在天人中 福力最爲勝 由福成佛道

 

だから、阿那律よ、まさに方便(upāya。よい手立て)を求め、すなわち機会をとらえ、この六法を実行しなさい。このように諸々の仏弟子は、この学(= 学処śikṣā)を実践すべきである。

 

是故阿那律當求方便得此六法。如是諸(b18)比丘當作是學

 

仏教者にあって、福徳を積むとは、善を求めることに他ならないのです。