円頓者(現代語訳)
花野充道「天台本覚思想の論理構造」印仏研55-1, 2006より。
円頓の修行は、初めから実相(諸法即実相・当体則中・則事而真・一色一香無非中道)の世界に入る。実相の世界は、不生不滅の真理世界であるから、そこには空間も時間もない。別教の修行のように、観る者と観[られ]る法とがあり、生滅の事象の世界から次第に修行を進めていって、最終的に実相の真理世界に入るのではない(実相の真理世界は円教であるから、別教は次第していく中で、最終的に円教に被接して真理を証得する=円接別。別教の事象世界においては、実際に成仏した人はいない=果頭無人)。実相の真理世界においては、諸法の当体即中であるから、どのような境(五陰・十二入・十八界)であれ、直ちに中道・実相であり、あらゆるものが真実でないものはない。我が一念と法界は一如であり、心と仏と衆生は差別がなく、絶対平等である。五陰も十二入も[十八界も]即真如であるから、苦諦として捨つべきものはない。煩悩は即菩提であるから、集諦として断ずべきものはない。辺見も邪義も即中道であるから、道諦として修すべきものはない。生死は即涅槃であるから、滅諦として証すべきものはない。実相の真理世界は、空間的に彼此相対の差別のない絶対平等の世界であるから、陰入[界]即真如、煩悩即菩提、辺邪即中道、生死即涅槃である。また時間的な初後相対の差別のない絶対一如の世界であるから、苦諦として諸苦を捨てたり、集諦として煩悩を断じたり、道諦として中道を修したり、滅諦として涅槃を証したりするものがない。苦諦も集諦もないから迷いの世間はなく、道諦も滅諦もないから覚りの出世間もない。迷悟不二、世間即出世間、凡聖一如、凡夫即仏であり、ただ一つの実相である。実相のほかに別の法があるわけではなく、あらゆるものがそのまま実相(中道・真如)である。心を止めて、境を観ずるから、止と観の初後の時間的差別があるように見えるけれども、実は初後は不二である。行者が対境を観ずるから、観ずる智と観ぜられる境に空間的差別があるように見えるけれども、実には境・智は不二である。あらゆるものはただ一つの絶対的な実相にほかならないから、断ずべき煩悩もなく、証すべき菩提もない。そのような絶対的な止観を円頓止観と名づける。
ことさらコメントはいたしませんが、参考資料としてご紹介いたします。天台宗の教学に対する弘法大師の見解については、いずれ機会を見て考えることになります。合掌