円頓章 事始め
「円頓者(円頓とは)」で始まる「円頓章」は『摩訶止観』序文(「縁起」)からの抜粋で、天台智者大師智顗(ちぎ.538-598)の実相観の心髄をまとめた一文、一節(「章」)をいいます。加えて、「当知身土 一念三千」以下は、天台第六祖・荊渓湛然(711-782)の『止観輔行伝弘決』(『摩訶止観』の注釈書)巻第五之三の一文です。(『天台宗実践叢書』第三巻、法要1992参照)
円頓章をお唱えするにあたって、そこで用いられる仏教用語について、すでに知っているはずのことばを取っ掛かりとして、少しお話しします。
まず、
一色一香無非中道(いっしきいっこう むひちゅうどう)
です。ここでの「色」(しき)、「香」(こう)は、『般若心経』の「色声香味触法」(六外処)とあるところの「色」と「香」で、視覚の対象となる色彩・かたち、臭覚の対象となる匂い・臭いをいいます。「六外処」に対して「六内処」があり、それは「(無)眼耳鼻舌身意」とありました。なお「処āyatanaよりどころ」は「入処(にゅうしょ)」とも呼ばれます。
「一色一香無非中道」は「一色一香も中道にあらざることなし」と読み、ここでの「中道」は、初転法輪における、八正道を意味する中道ではなく、「造境即中 無不真実」(ぞうきょうそくちゅう、むふしんじつ)、すなわち「境に造(いた)るに即ち(即時、相即に)中(ちゅう)にして、真実ならざることなし」という意味です。
次に、
己界及仏界衆生界(こかい ぎゅう ぶっかい、しゅじょうかい)亦然(やくねん)
己界、仏界、衆生界は「心と仏と及び衆生」(『華厳経』「夜摩天宮菩薩説偈品」)とほぼ同義です。十界(じっかい)という概念があり、「さまざまな差別相を持つ衆生の境界を、因果の隔別によって、10種に類別したもの。仏教教理を理解せずに、苦集因果(世間因果)を行ずる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と、仏教理解の浅深は存するが、いずれも道滅因果(出世間因果)を行ずる声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖を合して十界とする。(中略)智顗の天台三大部では、六道・四聖の十界はいずれも法界にほかならないとして、十法界のいずれにも他の九法界(九界)を具するとする十界互具が主張され、とりわけ『摩訶止観』では、六道凡夫が起こす無明の一念心にも仏法界に及ぶ三千(十界互具の百界に十如是・三世間を乗じて三千とする)の一切法を具するとする、いわゆる「一念三千」が説かれた。(後略)(十界、Web版浄土宗大辞典、執筆者:木村周誠 参照)
次は
陰入皆如(おん にゅう かい にょ)
です。「陰・入、皆な如なれば」と読み、下につづきますが、ここでは、己界及び仏界、衆生界も亦然り(= 中道にあらざることなし)、陰・入、皆な如なり、と仮にして説明します。「中道」は「如」(真如tathatā)とも言い換えられています。では、陰(おん)・入(にゅう)は何かといえば、すでにご存じの「五蘊」(色受想行識)、「十二処」(六外入処、六内入処)のことです。したがって、五蘊も、十二処もあらゆる存在は、中道にあらざることなし、といっているのです。なお、「五蘊」、「十二処」のほか、「十八界」という、一切法の分類もあります。それは、六根・六境に六識を加えたもの、詳しくは、六根の意眼を六識と意根(前刹那の識)の七つにわけて、十八界と数えます。界とはdhātuの訳語で、要素を意味する語である、といいます。ですから、「己界」はわたしをとりまき、構成している要素、私の生存、その世界という意味に理解できます。
さいごに、
無苦可捨、無集可断、無道可修、無滅可証
です。これも『般若心経』の「無苦集滅道」と同義です。
「これが苦聖諦であると遍知すべきである(parijñātavya)」、「これが苦集聖諦であると永断すべきである(prahātavya)」、「これが苦滅聖諦であると現証すべきである(sākṣikartavya)」、「これが苦滅に趣く道の聖諦であると修習すべきである(bhāvayitavya)」とありました。(ブッダの教説の意図 四聖諦 和英対照仏教聖典2025/06/21)したがって、「無苦可捨」は苦諦は空であるから、ことさら「苦[である]として/苦の(遍知し)捨つべきなく」であり、「無集可断」(集として/集の断ずべきなく)、「無道可修」(道の修すべきなく)、「無滅可証」(滅の証すべきなし)と読みます。
つまり、苦・集として迷いの世界なく、道・滅としてさとりの世界なし、であり、一切は「純一実相(じゅんいちじっそう)」であるとするのです。円頓止観に対して、漸次止観、不定止観があり、それを三種止観といいます。