『般若心経』は一体何を説いているのですか

 

本日、僧侶研修生のお方から、『般若心経』はどのように分節(伝統的には科文 かもん といいます)されるのですか、そして一体何を説いているのですかという質問を受けました。そこでネット、最新の情報を検索したところ

 

城福雅伸氏の『般若心経』の解読的研究 ―『般若心経』は空を説明した経典ではなく、般若波羅蜜多の偉大さと讃歎を説く経典である―、Reviev of Economics and Informatuin Studies Vol.24 March 2024

 

を目に留まりました。立川武蔵先生の『般若心経の新しい読み方』春秋社2001を参照して(特にsvabhāva自性に関する箇所)をもって、あらためて、梵文『般若心経』(小本)の翻訳(2025-07-07)を修正してお届けいたします。なお城福雅伸氏の論文は、「無分別智である般若波羅蜜多には根本(・無不別)智と後得(・清浄世間)智を含めて」解釈すること、般若波羅蜜多と阿耨多羅三藐三菩提との関係を『大智度論』等を用いて論じていることなど、私にとってもとても有益でした。

 

『般若心経』の分節については、城福論文を参考に私見でもって再提示し、『般若心経』は一体何を説いているのですかという質問に対しては「般若波羅蜜多の偉大さと讃歎を説く」する城福論文を尊重して、般若波羅蜜多によって認識される「空」の世界(この世において、と空においては、の二種)と般若波羅蜜多実践を支援し、その功徳を説く大乗仏典であるとしておきます。『般若心経』が般若波羅蜜多のマントラを説く密教経典ではないのですかというお叱りを受けそうですが、それを含めての理解であるとご理解くださいませ。

 

【1】経典の題名

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(小本系)鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明呪経』、玄奘訳『般若波羅蜜多心経』

サンスクリット文では、経題は末尾に記されます。

 

【2】般若波羅蜜多の実践による功徳・総論

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時照見五蘊、度一切苦厄
Cf.鳩摩羅什訳「照見五陰(847c11)空、度一切苦厄」)

 

聖なるアヴァローキテーシュヴァラ(観自在)菩薩は、深遠な、智慧の完成(般若波羅蜜)の実践をなしながら、[この世間を]観察した(vyavalokayati sma)。

[世間には心身を構成する]五つの集まり(五蘊)があるとそして、それらはスヴァバーヴァ(svabhāva自性)が空(śūnya)である( = スヴァバーヴァを欠いている。「(五蘊)自性空」)と見たのである(paśyati sma)。

 

サンスクリット本には「度一切苦厄」はありません。(Cf.『ダンマパダ』第277-279)

 

【3】五蘊(「五蘊自性皆空」)の意味 

舎利子不異空・空不異色、色即是空・空即是色、受想行識亦復如是

Cf.鳩摩羅什訳「舍利弗、非色異空・非(847c14)空異色、色即是空・空即是色、受想行識15亦(c15)如是」

 

シャーリプトラ(舎利弗)よ、ここ(= この世界)において(iha)、色(rūpaしき。物質的要素、もの。まさしく、この身体とこの世界)は空であり、空は他ならず色である(rūpa śūnyatā śūnyataiva rūpam。色は空に異ならない、空は色に異ならない。色、それは空であり、空、それは色である。感受(受という心的作用)も、表象(想という心的作用)も、意思(行という心的作用)も、認識(識という認識作用)も、まさに同様である。

 

「ここ(= この世界)において(iha)」、および、下線部にあたる句が、玄奘訳にはありません。(それは「不異空・空不異色、色即是空・空即是色」を一文として表現したもののようです。)そして、「不異空・空不異色、色即是空・空即是色」が、さきの、色がスヴァバーヴァを欠いている、ということを表現しているのです。すなわち、色は、色であること(色自体)を欠如している、色であること(色自体)を欠如しているものが(この世界では)色としてある、色としてあらわれている、色として機能している、という意味です。「五蘊」の「皆」を、五蘊すべてが(空である)ことを指示していると理解するのが穏当なのですが、ここでは「五蘊はみずからの存在すべて、自分全体が」(空である)と理解しておきます。

 

【4】般若波羅蜜多によって認識される「空」の世界 

舎利子、是諸法空相、不生・不滅、不垢・不浄、不増・不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意・無色声香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽、乃至、無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得

 

シャーリプトラよ、この世において、すべての構成要素(法)は空を特質としており(sarvadharmā śūnyatā-lakaṇāḥ)、生じていることもなく、滅していることもない。汚れていることもなく、汚れをはなれていることもなり、不足していることもなく、過剰であることもない。それゆえにシャーリプトラよ、空においては、色もなく、感受(受)もなく、表象(想)もなく、意思(行)もなく、認識(識 vijñāna)もない。眼、耳、鼻、舌、身体、思考器官(意 manas)もなく、色かたち、音声、香り、味、触覚対象、[思考器官の対象となるさまざまな]構成要素(法 dharma)もない。無明もなく、無明が盡きることもなく、乃至(行、から生まで、そして)老いと死もなく、老いと死が盡きることもない。苦と[苦の]原因、[苦の]消滅と、[苦の消滅に導く]道もない。智もなく、[ニルヴァーナ(涅槃)を]獲得ることもない。

 

サンスクリット文の般若心経では、この世において(iha)、空においては(śūnyatāyām)はとても効果的に配されています。これがあることで、論理的整合性をもって理解できるのです。

 

【5】般若波羅蜜多の実践による功徳・再説

以無所得故、菩提薩埵依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提

 

それゆれに、獲得することがない(と分かった)ので、もろもろの菩薩の(実践された)智慧の完成によりながら、心が覆われることもなく住んでいる(viharati = 生き、活動しいている)。心の覆い(citta-āvaraṇa)がないから、恐れることもなく、顚倒した心から遠くはなれ、ニルヴァーナ(涅槃)を成就している(= 達成している)。[過去・現在・未来の]三世にいますすべての仏は、智慧の完成によりながら、この上ない正しいさとりを覚られたのである。


【6】般若波羅蜜多の実践を支援する呪(mantra)を説く

故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪。能除一切苦、真実、不虚故。説般若波羅蜜多呪 即説呪曰(tad yathā)羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

 

それゆえに、知らねばならない。智慧の完成(般若波羅蜜)は偉大な真言、偉大な呪法の真言(vidyāmantra)、無上の真言、比類なき真言であり、すべての苦悩を鎮めるもの(sarvaduḥkhapraśamana)であり、真実である。偽りではないのであるから。智慧の完成という真言が説かれている。それは次の通りである(tad yathā)。往(い)けるものよ(gate)、往けるものよ(gate)、彼岸に往けるものよ(pāragate)、彼岸に到達するものよ(pārasaṃgate)、さとりよ、幸あれ(bodhi svāhā)。

 

【7】経典の題名

般若心経

 

以上で、『般若波羅蜜多の心』を終わる。

 

サンスクリット文では、「仏説」も「摩訶」も、そして「経」という語も、ありません。

 

明日、そのお方にご理解していただけるよう、よりかみ砕いて、お話しする予定です。

 

(追記)般若心経に、観自在菩薩が冒頭の1回しか言及されないのは、どうしてだか分かりますか。舎利子は玄奘訳では2回、サンスクリット文では3回なのにね。それは、「仏説」が冠されることと関連しているようなのです。