日常お唱えしている開経偈の、その典拠は不明であるといいます。(仏典には見つからないということ)。大澤亮我「開経偈について」『教化研究』第3号1992には、開経偈を記載する文献として、年代からいうと問題は有るが惠心僧都源信(942-1017)撰ともされる『読経用心』が最初であり、明確なところでは元代・省悟編『律苑事規』(1324)と、南北朝、室町時代の臨済宗の僧・愚中周及(1323-1409)の『大通禅師語録』(1425)や『諸回向清規式』(1566)などがあり、とあります。ある意味、意外であり、びっくりです。
典拠不明の開経偈ですが、その意味するところは、充分に考察するに値するものであることは、殊更申し上げるまでもありません。
その第一句「無上甚深微妙法(無上甚深微妙の法は)」は、たとえば『法華経』の「甚深微妙法 難見難可了(5c20)」(甚深微妙の法は 見難く了るべきこと難し)、「甚深微妙法 我今已具得(6a19)」(甚深微妙の法を 我れ今已に具え得たり)、「諸佛第一(6b09)方便。甚深微妙難解之法(諸仏第一の方便たる甚深微妙難解の法)」に、いずれも「方便品」第二における用例があります。
そして、お釈迦さまはおさとりになられた法(dhamma, dharma)は「甚深微妙」でありますことは、原始仏典『聖求経』などにも記されるところです。
わたしのさとり得たこの法は、深遠で(gambhīra- 甚深)、理解しがたくさとりがたい。静寂であり、卓越していて思考の領域をこえる。微妙(nipuṇa-)であってただ賢者のみよくそれを知ることができる。
‘Adhigato kho mayāyaṁ Dhammo gambhīro duddaso duranubodho,
santo paṇīto atakkāvacaro nipuṇo paṇḍitavedanīyo.
この句の後は、つぎのようにつづきます。
ところが世の人々はアーラヤを楽しみとし、アーラヤを悦び、アーラヤに気持ちを高ぶらせている。
Ālayarāmā kho panāyaṁ pajā ālayaratā ālayasammuditā,
アーラヤは、それに対して欲望をおこし執着するところのもの、と解説され、具体的には、五つの感覚器官の対象とされます。
さらに次のようにあります。
(世間)常識の流れに逆らい、微妙で、深遠で、理解しがたい、微妙な(この法)を、貪欲にふけり、無知の闇におおわれている人々は見ることはない。
Paṭisotagāmiṁ nipuṇaṁ gambhīraṁ duddasaṁ aṇuṁ.
Rāgarattā na dakkhanti,67 tamokkhandhena68 āvuṭā.’ ti69
さとりをひらき、しばらくこのように考えられていたお釈迦さまを知り、世界が滅びてしまうことを心配された、梵天が説法を要請する(梵天勧請)に至るのです。
開経偈はこの後、「百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)」とつづきます。これらの句については、機会をみて、またお話し申し上げます。