空(空性)と五蘊の関係 般若心経

 

(a)舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

 

(b)空中無色無受想行識(十二処、十八界のそれぞれも同じ。後略)

 

本日は、この二つの文の意味について、少し(私の)考えを述べてみます。

 

梵文からの和訳は「シャーリプトラよ、この世において、空は色であり、色は空に他ならない。色を離れて空はなく、空を離れて色はない。色、それは空であり、空、それは色である。感受も、表象も、意思も、認識も、まさに同様である。」とありました。同じく「シャーリプトラよ、空においては、色もなく、感受もなく、表象もなく、意思もなく、認識もない。(後略)」とあります。

 

玄奘三蔵による漢文訳と梵文テキストの細かな相違については、ここでは触れず、ただこの二つの文は、ともに空(空性)と色・受・想・行・識、すなわち五蘊との関係について語られている。そして(b)では「空においては」(色・受・想・行・識はない、すなわち不可得である)とあるに対して、(a)では漢訳文にはないのですが、梵文には「この世において」(iha)とあることに注目して、考えを述べてみます。

 

空(空性śūnyatā.空であること)と五蘊との関係「この世において」

 

『般若心経』は、観自在菩薩が舎利子に対して語っているのですから、深般若波羅蜜多を行じている観自在菩薩が「この世にお」けるありさまをみれば、ということ。その場合は、空(空性śūnyatā)と色は「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」、簡単にいえば「不一不異」(不二、不離)、すなわち同じでもないし、別なものでもない、ということ。それは何を意図しているのかといえば、色は般若波羅蜜多によって空ぜられるのですが、色は(色のままで)もとより空であるということ、です。一方、般若(prajñā)を完成していない私たちは、色は空(空性)ではないとして見ている、だから期待をこめて愛着する、可愛なるものであれば、いつまでもそうあってほしいなどと見ているということなのです。

 

なお「この世において」という限定(副詞)は、舍利子是諸法空相(「すべての構成要素(法)は空性を特質としている」)にもあり、その後「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とつづきます。

 

空(空性śūnyatā)と五蘊との関係「空(空であること)において」(śūnyatāyā. f.sg.L.)

 

空(空であること)においては、「(空中)無色無受想行識(十二処、十八界のそれぞれも同じ)」、すなわち、何ひとつとしてもない、不可得であるということ。空(空であること)において、何かがある、何かが認識されるとすれば、それが真実在であるということを意味します。したがって空(空であること)においては、何ひとつとしてない(不可得)のです。

 

般若(prajñā)の完成(般若波羅蜜多)とは、「空(空であること)において、何ひとつとしてない」という体得をもって、「この世にお」ける、すべてを空じて、そのありさまをありのままに正しく見ることなのです。

 

いかがでしょうか。いまはお話しできることは以上です。