道元禅師の『弁道話』(禅師32歳の著述1231年)という書物の末尾部分には「鶏足(けいそく)の遺風」という表現があります。これは「龍牙(りゅうげ)の誡勅」に対するもので、「龍牙」は龍牙居遁禅師(洞山良价禅師の法嗣835~923)を指しての表現のようですが、、「鶏山」はもちろん、摩訶迦葉を意味しています。「鶏足山に留まり、お釈迦さまの遺法を次世代の仏・弥勒へと伝える摩訶迦葉尊者」ということです。
『弁道話』(べんどうわ)には、釈尊と摩訶迦葉について、以下のような記述があります。
大師釈尊、霊山会上(りょうぜんえじょう)にして法を迦葉(かしょう)につけ(= に付法し)、祖祖正伝して菩提達磨(ぼだいだるま*Bodhidharma)尊者にいたる。尊者、みづから神丹国(しんたんこく。中国)におもむき、法を慧可大師(えかだいし487-593)につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。
この仏法の相伝(ソウデン)の嫡意(テキイ)なること(嫡子から嫡子へと伝えられたこと)、一代にかくれなし。如来むかし霊山会上にして、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心(ねはんみょうしん)無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存(そん)せり、うたがふべきにたらず。
仏法の相伝(付法)が迦葉尊者を通してであることを語る、この一節は、拈華微笑(ねんげみしょう)の逸話で知られる「世尊は靈山會上に在り、花を拈じて衆に示す。衆皆黙然たり。唯迦葉のみ破顔徴笑す。世尊云く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、敎外別傳あり、摩詞迦葉に付嘱す。」『聯燈会要』釈迦牟尼仏章(1183年。Cf.『天聖廣燈録[3]』1036年)に拠っているようです。
「正法眼蔵」の意味するところとは、以下のようなものです。
すでに、修(しゅ)の証(しょう)なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。(和訳:修行そのものが悟りなので、悟りに終わりはなく、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。)ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ(和訳:共に悟りの上の修行をされたのであり)、(中略)すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を(「一分」は謙遜の表現で、意味するところは「修行の全体を」と理解します)単伝せる、初心の辨道(= 修行)すなはち一分の本証を無為(むい)の地にうるなり。
『弁道話』については「道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み」を参照いたしました。
ここでは、摩訶迦葉について、釈尊との交流を中心に、そのプロフィールを簡単にご紹介いたします。
釈尊のお弟子さまを「十大弟子」と数える仕方があります。そこでは、摩訶迦葉は「頭陀行第一(edaggaṃ dhūtavādānaṃ)」と称されます。十大弟子には、智慧第一の舎利弗(シャーリプトラ)、神通第一の目連(マウドガリヤーヤナ)、そして多聞第一の阿難(アーナンダ)などが数えられます。
「頭陀」とは、原義は、ふるい落とす、はらい除くという意味です。煩悩の塵垢(じんく)をふるい落とし、衣食住についての貪り・欲望を払い捨てて清浄に仏道修行に励むことを言います。そのために十二頭陀行というのがあります。
1)人家を離れた静かな所に住する、
2)常に乞食(こつじき)を行ずる、
3)乞食するのに家の貧富を差別選択せず順番に乞う、
4)1日に1食する、
5)食べ過ぎない、
6)中食(ちゅうじき)以後は飲物を飲まない、
7)ボロで作った衣を着る、
8)ただ三衣(さんね)だけを適当量所有する、
9)墓場・死体捨て場に住する、
10)樹下に止まる、
11)空地に坐す、
12)常に坐し横臥しない、の12項目であります。(円覚寺「今日の言葉」拈華微笑2023.11.26、「同」糞掃衣2024.05.13等を参照。頭陀行を13種、11種とする考え方もあります。)
また四依(しえ。行四依、四聖種、四依法)があり、それは糞掃衣、乞食、樹下坐、腐爛薬(陳棄薬。ちんきやく)をいいます。
摩訶迦葉は、釈尊よりも13歳年長である、とのこと。さとりを開く前の、ウルヴェーラにて苦行のさなかにある釈尊(厳密には、ゴータマさん)と出会い、「もしどちらか先に阿羅漢になったら、互いに師となり弟子になろう」と約束しあったとされています。釈尊が29歳、摩訶迦葉は40歳代前半となります。
摩訶迦葉が釈尊の弟子となるのは、釈尊の成道後10数年が経過した頃と考えられます。それは、摩訶迦葉が少欲知足にして、頭陀行に基づく(一人きりでの)修行を行なっていたこともあり、釈尊が摩訶迦葉の消息を知ったのが成道後10数年、そして釈尊みずから尊者のもとに出向き再会をはたしたということです。そして以前の約束にしたがって、摩訶迦葉が「あなたが師、私が弟子」と宣言して仏弟子となった、といいます。それは「白四羯磨具足戒法」という正式な出家作法によるものではなかったということを意味します。
釈尊と摩訶迦葉との間柄を語るエピソードには、拈華微笑以外にも、釈尊にとって、摩訶迦葉が“同等な存在”であることを示す「半座を分かつ」(『雑阿含経』巻四十一・第1141経、大正蔵No.99. vol. 2.302a01-b01)があります。この逸話が、いつの頃と特定できるのかは寡聞にして知りませんが(もちろん、摩訶迦葉の帰仏の後のこと)、舎利弗、目連の上足の弟子が、釈尊に先立って亡くなってからは、摩訶迦葉の存在がいやおうもなく高まり、それが釈尊の遺法を嗣ぐべき人物となるのです。
釈尊と衣を交換した逸話など、また、仏滅後、その葬儀を執り行い、つづいて釈尊の令法久住の必要性を感じ、第一結集の主宰者として、優波離(ウパーリ)により律、阿難による「経」の結集の決断したことなどについては、また後日お話しいたします。