“Your suffering is my suffering and your happiness is my happiness,”

said Buddha, and, just as a mother always loves her child, He dose not forget that spirit even for a single moment, for it is the nature of Buddhahood to be compassionate.

 

ちょうど子を想う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救いるのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」と、かたときもてることがない。

 

まず「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ」とある、その典拠は『維摩経』の有名な一節です。中略を加えながら、少し長めに引用します。

 

癡より愛あり、すなわち我が病生ず。一切衆生の病を以っての故に我れ病む。(中略)所以は何ん。菩薩は衆生の爲の故に生死に入る。生死有ればすなわち病あり。(中略)衆生病めばすなわち菩薩病む。衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。また言わく、この疾は何の所に因りて起こるや。菩薩の病は大悲も以って起こる。

『維摩詰所説経』「文殊師利問疾品」第五より

 

だとすれば、「おまえの楽しみはわたしの楽しみ」とは、「衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ」を踏まえての表現であるようです。また「おまえの」とあるのは、子に対する親の気持ちを表現しています。

 

次いで、just as a mother always loves her child(直訳は、ちょうど母親がわが子を常に愛する/愛している/そのように)は、「十方(じっぽう)の如来(にょらい)は衆生(しゅじょう)を一子のごとく憐念す」という意味で、仏典にしばしばみられる常套句です。『弥陀讃』でお唱えしている「等視衆生如一子」は『金光明最勝王經』卷第十「捨身品第二十六」「大士救護運悲心 等視衆生如一子 勇猛歡喜情無悋 捨身濟苦福難思 定至眞常勝妙處 永離生死諸纒縛 不久當獲菩提果 寂靜安樂證無生」に用例があります。

 

またHe dose not forget that spirit even for a single moment(直訳は、かれ、ほとけさまは、一瞬たりとも、その精神を決して忘れない。)は、「観経文」の「(念仏衆生)取不」を踏まえたものでしょう。

 

なお、forという前置詞のここでの意味は、, forと「,」があるので、「理由」の用例でしょうか。そうであれば、it is the nature of Buddhahood to be compassionateの直訳は、[その精神を決して忘れない。]というのも、それは慈悲深きあることであり、仏であることの本質であるからである、となるでしょうか。

(例文)I don’t like him, for he is noisy.

 

今日は、午後からのご法要となっています。