やはり、お伝えすべきことをひとつ忘れていたことに、いま気が付きました。それは、七福神の中の弁才天さまのお姿についてです。

 

現在私たちが目にする「七福神」図中の弁才天さまは、二臂のお姿で琵琶をお持ちであることがほとんどではないかと思います。では、それ以前はどうだったのでしょうか、という小さな疑問です。確かなことはいえませんが、Wikipedia「七福神」の項をたよりにして少しだけ考えてみます。

 

まず、七福神の信仰は、「七難即滅 七福即生」という一句に由来する、とのこと。それは、鳩摩羅什訳『佛説仁王般若波羅蜜経』「護国経受持品」第七、不空訳『仁王護國般若波羅蜜多經』「奉持品」第七に用例があります。

 

福徳の神として信仰される七柱の神さまは、一般的には恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、そして弁才天ですが、七福神が出揃った後、江戸時代にあっても、それ以外の顔ぶれの招致、つまり神さまのセットに出入りがあったとのことも重要です。そして七柱として、ユニットが結成される以前、その前段階として、

 

毘沙門天・恵比寿・大黒

恵比寿・大黒・弁才天

 

があり、布袋(= 弥勒菩薩さま)、そして道教の福禄寿・寿老人などが中国から入ってきたのは、室町年間(1336-1573)の初期のこと、そしてその中期となる応永27年(1420年)には七福神の仮装行列が京都で行われた、とのこと。そして、「『七難即滅 七福即生』という一句に由来する」という理解と矛盾するようなのですが、七福神の成立には『竹林七賢図』(七林の七賢人)が一役買っていることなどです。

 

インターネットで「七福神」「江戸時代」として検索したところ、これは「いいなあ」と思ったのが図が三種ほどありました。

 

まず「文化遺産オンライン」の七福神図。狩野常信(1636-1713) 、17-18世紀(江戸時代)、絹本・彩色・巻子(1巻)、36.7×599.0と横長のもの。下の図は部分です。

 

 

次は、「七福神乗合宝船」歌川芳綱、木版色摺、江戸後期(画像提供・白鹿記念酒造博物)


二つとも、二臂で琵琶をお持ちの優美なお姿です。

 

あとひとつは、「龍谷大学図書館デジタルアーカイブ」より、「富士山興法寺宝船図」(駿河興法寺板) ― 大黒天・七福神・宝船図版類 ―、江戸時代、29.0×38.6(cm) です。

 

解題には「本図は図の中央に船宝大明神を描き、千手観音・七福神・宝船を図示す」とあります。その「船宝大明神」という表現は、図中にもあらわれますが、実際、宝船の中央にいらっしゃるのは弁才天で、しかも八臂です。このような事例をどのよ

うに解釈すればいいのか、いまだ情報が少ないのですが、ひとつの仮説をたてることはできます。まず、この宝船の穂先には千手観音、船尾には天女、おそらく二臂の弁才天でしょう。もちろん帆の上に如意宝珠、そしてその下にも二つ、計三つの如意宝珠が見えます。(それは三弁宝珠を表わすのでしょうか。)それ以外に毘沙門天と大黒、そして残るは中国風の衣服のお方、おそらくこのお方が「船宝大明神」なのではないでしょうか。そして八臂弁才天の前の「童子」らしきお方がひとり、それに多くの櫓をこぐお方、七名の二列を加えて、いわゆる「十五童子」の構成です。したがって、この宝船図の中心は弁才天であることになります。ここまで推理を進めると、おのずから、現在一般的に見られる、七福神の中の弁才天さまのお姿が二臂であることの意味がみえてきます。

 

弁才天さまは、その宝船の船上では、「わたし弁才天は、弁才と技芸を授ける役目[だけ]をはたします。その残りの福徳はご同船してくださっている、男性の皆さまにお任せいたしますので、どうぞよろしく」といって、決してすぐれた八臂のお姿をあらわすことなく、お淑やかにされているのです。八臂のお姿は、男性の神々を圧倒し、そのすべての功徳を一身に備えているからなのです。

 

以上は仮説、たんなる予想に過ぎませんが、わたしはとても気に入っています。