前回、宇賀弁才天は、なぜ観音さま(「八大観音」)と関連付けられているのでしょうかと、疑問としておきました。
それに関して、義浄訳『金光明最勝王経』(§7に含まれる)に、観音・観自在菩薩を彷彿させる記述があることは、義浄訳『金光明最勝王経』における弁才天の記述2025-03-21に指摘した通りであり、またここでご紹介する、浄厳師の『大弁才天秘訣』における、大弁才天の「本地」についての記述が参照されます。
本地(ほんじ)とは、本地垂迹(ほんじ・すいじゃく)の「本地」であり、ここでは、元来インドの神さまである弁才天女を仏・菩薩の化現された仏身として理解することをいいます。そして、このような解釈は弁才天女に限らず、あらゆる尊格に対して可能であり、そして、さらに深まりのある「四重秘釈」(浅略、深秘、秘中[の]深秘、秘秘中[の]深秘)が施されます。浄厳『大弁才天秘訣』における、第一の主題である「四重秘釈」は以下のようにあります。
第一 四重秘釈
およそ一切[の]諸尊に通じて四重秘釈あり。いまこの尊(= 大弁才天)について四重の分別[すなわち、四つの段階levelを用いての分析をな]せば、第一に浅略の釈とは、この天は実類の天なり。宿善(過去世の積んだ善根)深厚なるによって、智慧・弁才を得て、最勝殊妙なり。(そして)また能[く、智慧・弁才を]衆生に与えて満足せしむ、この重[位]は一門の一門なり。
「一門の一門」とは、「個」(個別)としての、インドの神さまとしての一般的な理解であると、筆者は解釈します。なお「実類の天」とは、「垂迹の神(天)」に対する用語です。
第二に、深秘の釈とは、この天は大権(だいけん/たいけん)[、すなわち仏菩薩の]垂迹の神なり、本地の境界[は]甚深難思なるを以って、能く外に[よく分かるように、衆生に]威勢・福徳・財宝・寿命・名称・弁才を施与す。その本地はいわく、[法身]大日如来なり、等流法身を現じて大弁才天女と成る。外金剛部(= 胎蔵マンダラ最外院)の西方にあり<現図曼荼羅>、 [大疏第六] 阿闍梨所伝漫荼羅には、南方に在って身[は]黄色なり。[等流法身としての大弁才天女は]釈迦如来の眷属たることを示して、その化導を助け、妙音を以って、秘密乗を説いて衆生を引誘す。これは、普門の中の一門なり。
「普門の中の一門」は、普遍の一部としての「特殊」を意味するものとして解釈しています。ここにあるように「釈迦如来の眷属」であることを念頭において、以前「お釈迦さまと弁才天さまとは仲が良いのかしら」と申しあげたところでございます。(ここでやっと種明かしができました。)さて次いで、弁才天の本地としての仏菩薩が示されます。
またこの本地について、或いは妙音(みょうおん)菩薩、或いは観自在菩薩、或いは地蔵菩薩等の垂迹とする義あり。(ここでの「義」とは意味ある、有意義な[解釈]という意に受けとめられます。)まず『法華[経]』「妙音[菩薩]品」[第二十四]に「或現天(deva)龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅(56a24)緊那羅摩睺羅伽人非人等身。而説是經」文。所現の天身の中に、弁才天を簡(えば)ぶべからざる故に。(「天」の中に、弁才天も含まれている、ということです。)況やまた本地垂迹[の]体[(姿・形)は]異なれども、同じく妙音と名づく。まさに知るべし、能現・所現たること、[ちょうど]掌[の裏表]を示すが如し。次に普門品には、「應以(57b16)天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等身得度者、即皆現之而爲説法」といえり。これまた上に準じて知んぬべし。次に『地蔵十輪経』には、地蔵菩薩の所変に諸[の]天身あり、この中にも大弁才天あるべきが故に。
『地蔵十輪経』とは、玄奘訳『大乘大集地藏十輪經』 (No. 0411)をいいます。地蔵菩薩さまも、妙音菩薩さま、観音さまと同じように(負けず劣らず、いえ、それ以上に)さまざまな有情に姿形を変えて、「堅固誓願・勇猛精進」をもって、私たちに法を説き、教導いてくださる、とその経文にあります。原文のみご紹介いたします。
成就如是如我所説不可思議(c15)諸功徳法。堅固誓願勇猛精進。爲欲成熟(c16)諸有情故。於十方界。或時現作大梵王身。(c17)爲諸有情如應説法。或復現作大自在天(c18)身。或作欲界他化自在天身。或作樂變化天(c19)身。或作覩史多天身。或作夜摩天身。或作(c20)帝釋天身。或作四大王天身。或作佛身。或(c21)作菩薩身。或作獨覺身。或作聲聞身。或作(c22)轉輪王身。或作刹帝利身。或作婆羅門身。(c23)或作8茷舍身。或作戌達羅身。或作丈夫身。(c24)或作婦女身。或作童男身。或作童女身。或(c25)作健達縛身。或作阿素洛身。或作緊捺洛(c26)身。或作莫呼洛伽身。或作龍身。或作藥叉(c27)身。或作羅刹身。或作鳩畔荼身。或作畢(c28)舍遮身。或作餓鬼身。或作布怛那身。或作(c29)羯吒布怛那身。或作9粤闍訶洛鬼身。或作(726a01)師子身。或作香象身。或作馬身。或作牛身。(a02)或作種種禽獸之身。或作剡魔王身。或作(a03)地獄卒身。或作地獄諸有情身。現作1如是(a04)等無量無數異類之身。爲諸有情如應説(a05)法。」
第三、秘中[の]深秘釈とは、この天(= 大弁才天女)は、外相(外的なお姿)は一門の尊(、私の用語では、「個」(個別)としての、あるいは「特殊」としての尊格)に似たりといえども、内証(心内に秘めたるさとり)には普門[の]万徳を備えたり。ままあるべき(それはよくあることだ、ということ)。形相(= 外相)を一門と見る[といえど]も、これ差別(しゃべつ)の機(き)の所見なり(こちら側の見解にすぎないのであって)、実には(上、一切佛界より、下、一切地獄界までの)十界の依正(依報・正報)の形色・性類[は]、皆な大日世尊の妙体なり(大日世尊を本体としている、の意)。いずれをか捨て、いずれをか取らん(価値として、何一つとして変わるところはない)。故に、この天の弁才(pratibhāna)は、大日の四無礙弁(法・義・詞・弁の四無礙解)なり。智慧は即ち大日五智、福徳・寿命・威力等、一つとして大日の所具にあらずということなし(すべてが、大日世尊が備えているところの福徳・寿命・威力等である、ということ)。『大疏』にいわく、「六趣の衆生は毘盧遮那と、本(も)とより二体なし」文(巻第六)、またいわく、「毘盧遮那と鬼畜等の尊とを観るに、その心平等にして勝劣の想なし。(すなわち、一門より入れども、皆[普門]の心王を見る。)」文(巻第三)、『菩提心論』にいわく、「(何んとならば次いでたる)諸尊は皆な大毘盧遮那仏の身に同じなり」文。これらの諸文、皆この重[位の]意なり。これは一門の尊体[の]内証・外用(げゆう)、ともに以って、普門大日の万徳なり。一門と見るは機見(= 差別の機の所見)にして、実に[は]その本体に関わりあらざる故、一門即普門の実義、この重[位]に顕われたり。
「秘中の深秘釈」とは、一門の尊格を、普門の大日と解釈することをいいます。「一門即普門」であって、「普門の中の一門」(「特殊」)ではないということは、すなわち「普遍」(普遍的個性universal personality)であると解釈します。すべての尊格の姿形が普遍化される、空ぜられる、ということです。そして空ぜられることを通して、あらゆる限定を越えた一尊格として受けとめるということなのです。多少ことばが過ぎるようですが、大弁才天女であって、大弁才天女ではない、すなわち世尊大日(・大弁才天)である、ということです。
第四、秘秘中[の]深秘釈は、行者全体(行者の存在そのものすべてが)、すなわち大弁才天なり、すなわちまた、大日如来なり[と受けとめることであり]、是三一体にして、二なく別なし。こんにち(自他ともに)凡夫所説の言辞・弁才は本尊天女(= 大日大弁才天女)の弁才の一分[の]出現せるなり、福徳・智慧・寿命・威力、皆な以って是くの如し。ただし(= なお)、「女」(にょ)とは必ずしも女根を具足すというにはあらず、寂静・三昧の徳を指して「女」とはいうなり。この重[位]は、一門の名字を(、すなわち、大弁才天女という名称すらも)忘れて、(行者の)当体、全くこれ万徳の毘盧遮那なり、もし前前に対して名目を立せば、普門即普門なり。
ここまで、一門の一門、普門の中の一門、一門即普門(の実義)と深まりを増し、そしてここでは、普門即普門とあります。まず注意すべきは「本尊天女」という表現です。それは、『弁財天勤行儀』における発願文の「至心発願 唯願大日 本尊聖者 大弁財天 宇賀神将」のことであると理解します。それは「一門即普門」の解釈における表現です。そして、ここにおいて「行者」の存在がかかわってきます。すなわち主体的に受けとめるということです。たとえば「観自在とは異人にあらず。汝、諸人これなり」とはしばしば耳にします。お大師さまも「観自在といっぱ、能行の人、すなわちこの人は本覚の菩提を[もって、さとりの]因となす」『般若心経秘鍵』とおっしゃいます。おそらく、一門即普門と普門即普門には浅深の差はなんらなく(、いずれも実義であり)、一門即普門をより主体的に受けとめるための、三摩地の状態におけるとらえ方をいうのでしょう。
なお、「女」については、以前触れたことがあったと記憶していますが、ここでも「三昧の徳」を表わすとあります。『大日経疏』巻第五に「女人とは是れ三昧の像(すがた、の意)なり、男子とは是れ智慧の像なり」ともあり、ここでの「女」(女人)とは、決してgenderの意味ではなく、「女性性」という意味で用いられています。どうして三昧が女性性で、智慧が男性性であるのかといえば、ときには智慧が女性性で、方便が男性性とされる場合があり、いずれにしても相対的なものであると理解しています。
このように、あらゆる尊格は、ある意味の「秘密眼」をもって受けとめられるということです。このような発想は、自らの周りのお方にもひとりひとり応用できるものなのです。