十二支縁起の第一支分であり、三毒・三不善根(貪瞋痴)の「痴」であるとされる、無明(Skt: avidyā,Pali: avijjā)について、金沢 豊「無明理解の変遷」『龍谷大学大学院文学研究紀要』31,2009に依りながら、その要旨を記しておきます。
本論文では、
阿含・ニカーヤ(、すなわち原始仏典)中の無明理解
アビダルマ論書の無明理解
『中論頌』等(『空七十論』を含む)のナーガールジュナの著作とその注釈者(ここでは、チャンドラキールティCandrakīrti)による無明理解
が扱われています。
阿合・ニカーヤの中で、無明は無知(aññāṇa)や、知らない(na pajānāti)[いうこと]と同義であることが確認できる、とします。それは、四聖諦に対する知の欠如、五蘊の[苦]集滅道に対する無知ということです。またいわゆる三毒・三不善根の痴(moha)といいかえ可能であることも、よく知られている通りです。
無明は「大いなる迷い」(mahāmoha輪廻の根源的な煩悩。「一切煩悩を助ける/助長するもの」)として「痴」であり、アビダルマ論書は、[真実を見る]知(vidyā)と相違する、すなわち、相い反するものであり、如実を明らかにしないから、無明であるというのです。(「輿明相違名為無明。然則不明如実故名無明」『成実論』訶梨跋摩ca.250-350著)。無明は具体的には「有身見」 (satkāyadṛṣti)である、といいます。(無常なる五蘊を無常であると如実に知らないことが原因です。)
これは、無明avidyāのa、否定を表わす接頭辞「無」が、明vidyāの非存在/欠如、あるいは、単にそれ以外であるもの(、すなわち痴以外の煩悩)を指すのではなく、明/如実知と相い反する、対立概念であることを指すという(文法学的な)機能に基づく、より適確な解釈となっています。
次いで、ナーガールジュナの著作とその注釈者であるチャンドラキールティによる無明理解が考察されます。(もう少しですが、本日はこれまでとします。)
無明は、「自らにとって都合のよいものはどこまでも欲しがり、自らにとって都合の悪いものはなかったことにしたがる根本原因、真実という光明に目を瞑らせる身勝手さ・無知」(鈴木隆泰)とも説明されます。無知のすそ野は広範囲にまでひろがっているのです。