眞觀清淨觀 廣大智慧觀 悲觀及慈觀 常願常瞻仰

真の観(実の眼をもって察するお方、の意)、清浄の観 広大なる智慧の観 悲の観および慈の観 [まさに]常に願い常に瞻仰(ふりあおぎ尊敬する、の意)すべし

2śubha-locana maitra-locanā prajñājñāna-viśiṣṭa-locanā /

kpa-locana śuddha-locanā premaṇīya3 sumukhā sulocanā //20//

きれいな眼、友愛の眼、智慧と知で卓越した眼、憐憫の眼、清らかな眼をもつお方!美しい顔、美しい眼をもつ(あなたは)愛おしい。

 

※観音さまを慈悲などの「眼(locanā)」を持つものとして形容する。これは、菩薩名Avalokita-を「観察する」という意味で解釈した結果であると考えられる、と辛島論文は指摘する。第26偈も同じ。

 

無垢清淨光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間

無垢清浄の光ある 慧日(陽光のような知)は諸の闇(やみ)を破し よく災の風火を伏し(止どめ鎮める、の意) 普(あまね)く(隅々まで、の意)明らかに(はっきりと)世間を照らす

amalâmala-nirmala-prabhā vitimara-jñāna-div’ākara-prabhā4 /

apahtânila5-jvala-prabhā pratapanto jagatī virocase //21//

 

※「(世間を観察する)眼」(locanā)とともに、「(世間を照らす)光/光明」(prabhā)という働きを観音さまが有している、ということ。「光/光明」は特に知(jñāna)の徳性を意味します。

 

悲體戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩惱焔

悲体の戒は雷震のごとく(/雷のごとく震い) 慈意は(大空一杯にひろがる)妙なる大雲のごとし 甘露の[ごとき]法雨(仏の教法を大地を潤す雨に譬えたもの)を澍(そそ)ぎ 煩悩の焔(ほのお)を滅除す

(6kpa-sadgua-maitra6)-garjitā śubha-gua maitra-manā mahā-ghanā /

kleśâgni śamesi prāinā dharma-vara amta pravarasi //22//

 

6: *kpa-saṃbhū-śīla-garjitāという語を想定すれば、「憐愍からなる戒[という雷鳴]を轟かせ」(悲體戒雷震)となります。※「体」と「意」で観音さまの身心、観音さまは慈悲の存在であること語っているようです。

 

諍訟經官處 怖畏軍陣中 念彼觀音力 衆怨悉退散

諍訟して官処(裁判所、の意)を経[るも] 軍陣(戦場、の意)の中に怖畏せん(慄いて身を小さくする、の意)も 彼の観音の力を念ずれば 衆(もろもろ)の怨はことごとく退散(退き、逃散すること)せん

kalahe ca vivāda-vigrahe nara-sagrāma-gate7 mahā-bhaye /

smarato Avalokiteśvaram praśameya ari-sagha-pāpakā //23//

nara-sagrāma-gate mahā-bhaye(人戦場に行き、多大な恐怖にあるとも)

 

妙音觀世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念

妙なる音、世を観ずる音 梵の音、海潮の音 彼の世間に勝れたる音あり この故にすべからく常に念ずべし

megha-svara dundubhi-svaro jala-dhara-garjita brahma-susvara /

svara-maṇḍala-pārami-gata smaraīyo Avalokiteśvara ///24//

雷雲のような響き、太鼓のような響き、海のような轟き、梵天のようなきれいな声をもち、音の領域で完璧さに到達した観自在を念ずべし

 

観音さまは「響き・音/声」(svara)が結びつけられて説明されています。この偈の存在からも、「観自在(Avalokiteśvara)」に先行して、Avalokitasvara まさしく「観/観世」という呼称があったことの妥当性が証明されるのです。さらに、西北インド方言であるガンダーラ語では、svara(声、音)はsmara(「念彼観音力」の「念」)という意味をもつ、ということが辛島論文によって指摘されています。ですから「念ずべし」ともあるのです。(一種のことば連想なのです。)Avalokitasvara という古い形からAvalokiteśvaraという新しい形への移行があったのは、6世紀前後(インド本土、中央アジアのどこか)であったと推定されるとのことです。なぜこのようなことが生じるのか、といえば、仏典は暗誦での伝承がより一般的であったからなのでしょう。仏教学という学問分野は歴史的な文献学を基礎として成り立っている、とてもスリルのある研究対象なのです。(いまのわたしはその埒外にあります。)

 

念念勿生疑 觀世音淨聖 於苦惱死厄 能爲作依怙 

念念に(常に思い、その名を称えること、の意)[決して]疑いを生ずるなかれ 観世音[の]浄聖は苦悩と死厄とにおいて よくために依怙とならん

smarathā smarathā ma1 kāṅkathā śuddha-sattvam2 Avalokiteśvaram /

marae vyasane upadrave trāu bhoti śaraam parâyaam //25//

浄らかなお方である観自在を念ぜよ、念ぜよ、疑いをもってはならない。死や苦しみ悩み、災害・不幸にあって、(彼は、わたしたちの)救済者であり、帰依処であり、最終的な拠り所であるのです。

 

サンスクリット文の三つの語でもって、「依怙」ということばの意味がはっきりとします。

 

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮
一切の功徳を具し 慈眼もて衆生を視る 福聚の海は無量なり この故にまさに頂礼すべし

(3sarva-guasya3) pārami-gata sarva-sattva-kpa-maitra-locano /

gua-bhūta mahā-guṇôdadhī vandanīyo ‘valokiteśvara4 //26//

あらゆる功徳が完成の域に達し、あらゆる衆生に対して憐憫と友愛の眼をもち、

(仏としての)功徳からなる、功徳の大海である、観自在を礼拝すべし。

 

やっと、ここまでこれました。でもはっきりと理解できない箇所がたくさん残っています。 合掌