諸法実相(しょほうじっそう)
諸法の真実相の意。すなわち一切諸法の真実にして虚謬ならざる相(そう)をいう。天台教学の大成者・智顗(538-597)は、小乗の謂わゆる三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)に対して、「諸法実相」を大乗の一法印(「一実相印」)とし、中道(ちゅうどう)のほか、その異名として、妙有(みょうう)、真善妙色、実際(じっさい)、畢竟空(ひっきょうくう)、如如(にょにょ)、涅槃、虚空仏性、如来蔵、中実理心、非有非無中道、第一義諦、および微妙寂滅(みみょう・じゃくめち)の十二を挙げている。そのことの意義は、『中論』及び『大智度論』等は畢竟空(真空論)を諸法の実相とするに対して、智顗は中道(空仮中の中諦)をもって実相となすことに求められます。
まず諸法実相の用例をひとつ、鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若』)を示します。
鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜經』(T.No.223.vol.8)巻第十七・深奧品第五十七「希有なり世尊。諸法の実相は説くべからず。而も佛は方便力を以ての故に説く」
それは須菩提が仏世尊に対して述べたものであり、以下のように文脈の中での記述です。巧みな方便を以て説き明かすということは稀有なることであり、それによって導かれるとしても、それは諸法の実相ではない、ということです。
佛告須菩提。如是如是。是法(345c05)義無別異。須菩提。是法不可説。佛以方(c6)便力故分別説。所謂不可盡無數無量無邊(c7)無著。空無相無作無起無生無滅無13染涅槃。(c8)佛種種因縁以方便力説。須菩提白佛言。(c9)希有世尊。諸法實相不可説。而佛以方便力(c10)故説。世尊。如我解佛所説義。一切法亦不(c11)可説。佛言。如是如是。須菩提。一切法不(c12)可説。一切法不可説相即是空。是空不可(c13)説。世尊。不可説義有増有減不。佛言。不(c14)也須菩提。不可説義無増無減。
鳩摩羅什訳『中論』からの関連する記述を望月大辞典は引いています。
龍樹造・青目釈。鳩摩羅什訳『中論』(T.No.1564. vol.30)觀法品第十八
(24a1)諸佛或説我 或説於無我 (a2)諸法實相中 無我無非我
諸佛は或いは我と説き、或いは無我と説くも、諸法實相の中には我もなく非我もない。
(a3)諸法實相者 心行言語斷 (a4)無生亦無滅 寂滅如涅槃
諸法實相とは心行言語斷じ、生なく亦た滅なく、寂滅なること涅槃の如し。
(a5)一切實非實 亦實亦非實 (a6)非實非非實 是名諸佛法
一切實非實(一切は実。[一切は]実にあらず)、亦た實亦非實(実にして、また非実なり)、非實非非實(実にあらずして、非実にもあらず)なる、是れを諸佛の法と名づく
(a7)自知不隨他 寂滅無戲論 (a8)無異無分別 是則名實相
自ら知りて他に隨わず、寂滅して戲論なく、異なく分別なき、是れを則ち實相と名づく。
サンスクリット原典からの和訳も参照します。漢文からの印象とはちがって、著者・ナーガールジュナ(龍樹)の思想に直接触れることができます。
桂紹隆・五島清隆『龍樹「根本中頌」を読む』春秋社2016.翻訳編「第十八章 自己と法の考察」より
(第6偈)諸仏によって(1)「自己がある(有我)」とも仮に説かれた(施設された)。(2)「自己はない(無我)」とも説かれた。(3)「何か自己と呼ばれるものがあるわけでもなく、自己のないものがあるわけでもない(非有我非無我)」とも説かれた。(三句分別)
(第7偈)[空性において言語的多元性が滅するとき、]言葉の対象は止滅する。そして、心の活動領域も止滅する。なぜならば[諸法の]法性は、あたかも涅槃のように、不生にして不滅だからである。
(第8偈)(1)「一切は真実である。」いや、(2)「一切は真実ではない。」そして、(3)「一切は真実であり、かつ、真実でない。」さらに、(4)「一切は真実でもなく、真実でもないこともない。」これが[諸]仏の[教化対象に応じた]段階的な教えである。(四句分別)
(第9偈)[真実は]他に依って知られることなく、寂静であり、諸々の言語的多元性(戯論)によって実体視し語られることなく、概念的思惟を離れ、多義でない。これが[諸法の]真実(=空性)の特徴である。
一方、天台大師智顗は、実相を円頓止観(えんどんしかん)によって観察される内容(所観の境)とします。ですから、十如是につづいて、円頓章(えんどんしょう)をお唱えするのですね。諸法実相に対する理解が少し進んだような気がしいます。
以下の記事もとても分かり易かったです。
「ざっくり納得 法華経のすべて」第2章方便品(日蓮宗HP)
「仏教とはどのような教えか」諸法実相・十如是(立正佼成会HP)