『望月仏教大辞典』真言(しんごん. mantraマントラ)の項目より

 

『望月仏教大辞典』には「真言」の解説が詳しくあり、基本的な情報が網羅されているようです。その構成はまず「真言」の概説を述べ、次いで、mantraの起源はヴェーダの祭祀にあること、呪法に対する釈尊の否定的な見解、そして善呪、護身呪(パリッタ呪)の受容。そして般若、法華、宝積、大集等の大乗経典に「陀羅尼品」が配されていること、論書『瑜伽師地論』第四十五における四種陀羅尼(法陀羅尼、義陀羅尼、呪陀羅尼、忍陀羅尼)から呪陀羅尼の解説を示し、「真言は法爾常然の実相を示せるもの」であるとする『大日経』『大日経疏』における記述を紹介しています。ここでは、「真言」の概説部分のみをご紹介いたします。

 

『望月仏教大辞典』真言の項目より(筆者:振り仮名等を加えました)

 

真実にして虚妄(こもう。いつわり、の意)ならざる言詞(げんし。ことば、の意)の意。また呪(しゅ、じゅ)、神呪(じんじゅ)、あるいは密呪(みつじゅ)、密言(みつごん)等とも訳す。

【筆者】まず、漢訳仏典におけるmantra(真言)の訳語であると想定されるものを挙げています。

 

mantra[という梵語]は、「思惟する(考える)」の義なる[動詞]語根√manに後接字traを附したる名詞にして、もと思惟を詮表(せんひょう。表現する、の意)する用具、すなわち文字[・]言語を意味し、特に(ヴェーダの神々をはじめ、さらには精霊等の)神鬼(しん・き)らに対して発する神聖なる語句を称す。すなわちその語句は恭虔(きょうけん)にして虚妄ならざるが故に、之(これ)を真言と名づくるなり。

【筆者】古代インドのヴェーダの祭式で、祭官が唱える呪句がマントラと呼ばれます。マントラを唱えることで人は神々と交信することができ、神々への供物の奉献と、その果報の享受が可能となる、といいます。

 

ただし、タントラ文学(タントラ文献、に同じ)に在(あ)りては、mantraはman-trāa(思惟・解放[守護])の略にして、すなわち生死(しょうじ。すなわち輪廻の苦)の繋縛(けばく)より吾人の思惟を解放せしむるの意なりとし【筆者には意味不明】、あるいは生類の四大目的たる法dharma(義務、正義)、義artha(利得)、欲kāma(愛欲)、解脱mokaを招致するの義なりとせり。

【筆者】マントラの語源解釈を通して、あらたなる意義を提示した、とします。このような解釈は仏教文献においても等しく認められます。

gsang sngags ni (a) shes pa yin pa’i phyir dang/ (b)
skyob pa yin pa’i (pa yin pa’i ] DP; pa’i T) phyir ro//
(ro// ] DP; te/ T)「マントラ(mantra)」とは、(a)知(*manana)であるから、そして、(b)守護〔するもの〕(*trāṇana)であるから。

堀内俊郎「般若波羅蜜多とマントラの語義―ヴィマラミトラの『般若心経註』より―」Bauddhakosa Newsletter no.8, 2019を参照

 

また之を呪、あるいは神呪等と訳する[の]は、この真言観誦の功徳は不可思議にして、あたかも世間の呪術の如く、また神力の致すところの如くなるが故なり。

【筆者】マントラの語源解釈に基づく、仏典における理解を示しています。ここでは、玄奘訳『大般若経』における「神呪」の用例をひとつ検索しておきます。

(T220.vol.5,568b11)復次憍尸迦。若善男子、善女人等、不離一切智智心、以無所得爲方便。常於如是甚深般若波羅蜜多、至心聽聞恭敬供養、尊重讃歎受持讀誦、如理思惟精勤修學、書寫解説廣令流布。是善男子善女人等、一切毒藥蠱道鬼魅、厭祷呪術皆不能害。水不能溺火不能燒。刀*杖惡獸怨賊惡神衆邪魍魎不能傷害。何以故。憍尸迦。如是般若波羅蜜多是大神呪、如是般若波羅蜜多是大明呪、如是般若波羅蜜多是無上呪、如是般若波羅蜜多是無等等呪、如是般若波羅蜜多是一切呪王。最上最妙無能及者、具大威力能伏一切。不爲一切之所降伏。是善男子善女人等、精勤修學如是呪王。『大般若波羅蜜多經』卷第一百二初分攝受品第二十九之四」)SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」を用いての楽々検索です。般若波羅蜜多(完成されたすぐれた知恵)そのもの、般若波羅蜜多の体得、及びその実践が、呪のような、身を護るという機能を発揮するということです。『般若心経』も、それを引き継ぎ、さらに般若波羅密多がマントラであると表明するというところに、歴史的な意義があるのです。マントラ(・フリダヤ)の読誦でもって、般若波羅蜜多の実践を行い、完成された知恵を体得するということを目指すのです。

 

またこの真言を一(ひとつ)に明(みょう)、または陀羅尼(だらに)とも称す。明は梵語vidyāの訳にして、もと智識(知識、に同じ)または学問の義なるも、之を真言の一名となすことは、真言の功用(こうよう。仏教語読みでは「くゆう」。働き、機能、の意)が明智(みょうち)を以て無明(むみょう)[・]煩悩を破するが如くなるに比したるなり。また陀羅尼dhāraṇīは「保つ」の義なり語根√dhより転化せる名詞にして、もと総持(そうじ)[・]記憶の義なるも、真言文字はその方便(記憶するための手段)となるが故に、転じて陀羅尼と称せらるるに至りしものの如し。またあるいは、真言の長きものを陀羅尼といい、わずかに数句よりなるものを多く真言といい、一字二字等のものを特に種子(しゅじ)と称しつつありといえども、一般には互いに之を通用[する。]

【筆者】真言の類義語とされる、明と陀羅尼それぞれの意味、そして種子(しゅじ)ということばづかいについて説明しています。まずは以上です。これからは安心して「真言」について、学習を深められます。 合掌

 

本日は、11時からのご法要予定でした。午前中のお勉強です。