常楽我浄の大転換 - 臨済宗大本山 円覚寺 [2022.07.17]を、必要となる経文を少しだけ補って読んでみます。
本日は、ご法事の予定がありませんでしたので、お塔婆を書いたり、お戒名を考えたり、花瓶(けびょう)の水を代えたり、お電話に出たりして過ごせました。
以下、ご法話の全文です。
藤田一照さんは、坐禅を通して、私たちが大自然や他者に対して抱いている抵抗や対立が脱落してエネルギーの調和が生まれるということを説いてくださっていました。そこで一照さんは「全体的なエネルギーからからだが切り離されている感覚が消える」というのを「安心の原初感覚」だと示してくださいました。自分がこの宇宙全体の調和から独立しているように思うのが迷いであり、苦しみを生み出すのです。こういう調和のとれた状態を本来性というのでありましょう。この全体的な調和からからだが切り離された感覚が自我意識というものであります。そして自分だけが独立して存在しているかのように思いこみ、自分の思うようになると思いこみ、自分のものがあると抱え込んでしまうのです。そのために、病や死が苦しみになるのです。なぜなら、病や死は、そのような自分、自分のものというのがなくなっていくことだからです。仏教はこの自我を否定する教えであります。これを無我といいます。
(筆者のコメント)下線は筆者が付しています。無我とは、独立して存在している、自分の思うようになる、自分のものがある、との意識、すなわち自我意識から離れるということだと説明されています。藤田一照氏とは『現代坐禅講義 只管打坐への道』の著者でもあります。
無常と無我と苦しみということは、お釈迦さまが説かれた一番根本の教えであります。自我は常一主宰であります。いつも変わることなく(常)、それだけで独立して成り立ち(一)、自分の思うままにすることができる(主宰)というものです。世の中は変化する、無常だということは誰でも理解できます。栄耀栄華を極めた平家一門も滅亡してしまうのがこの世の中です。変化すると理解していながらも、その変化する中心には変わることのない自分があって、まわりだけが変化するように思っているのであります。仏教の大事なところは、その中心となる自分はいない、それも同じように変化するものだと説くところであります。この自我を否定してゆくために修行をしたのでありました。
( )内は筆者が付しました。無常の理解を深める歩みは、あらゆるもの、そして自分自身も例外なく移り行く、変わりゆくこと、それとともに、あらゆるものにはその中心となるような不変の実体はない、という無我の理解を伴なって深められることになります。
まず仏教では四念処という修行を行っていました。「四念処」とはどのようなものか、岩波書店の『仏教辞典』を参照してみましょう。「四念住ともいう。四つの専念の意。浄(じょう)・楽(らく)・常(じょう)・我(が)の<四顛倒>を打破するための修行法で、身体の不浄性を観察し(身念処)、感覚の苦性を観察し(受念処)、心の無常性を観察し(心念処)、法の無我性を観察する(法念処)」というものです。体は不浄であり、感受は苦であり、心は無常であり、法は無我であると観察するものです。三十七道品(修行法)という初期の仏教の修行に加えられていたものです。「一つには観身不浄、二つには観受是苦、三つには観心無常、四つには観法無我」の四つなのであります。これによって、誤った四つのものの見方を離れるのであります。
ここでの「四念処」の説明は、以下において、詳しく説かれるように、四顛倒と関連付けて行われていることに留意しておいてください。そしてその後、大乗仏教になって、発想の大転換が起こります。四念処については、Wikipediaの内容が有意義です。Cf.『大智度論』巻第三十一「問曰。何等是四念處。答曰。(T1509.25.198c11)身念處、受・心・法念處。是爲四念處、觀四法四種。觀身不淨、觀受是苦、觀心無常、觀法無我。是四法雖各有四種。身應多觀不淨、受多觀苦、心多觀無常、法多觀無我。何以故、凡夫人未入道時、是四法中邪行起四顛倒。諸不淨法中淨顛倒、苦中樂顛倒、無常中常顛倒、無我中我顛倒。破是四顛倒故、説是四念處。破淨倒故、説身念處。破樂倒故、説受念處。破常倒故、説心念處。破我倒故、説法念處。以是故説四、不少不多。」
あやまったものの見方のことを仏教では「顛倒(てんどう)」といいます。こちらも岩波書店の『仏教辞典』を参照しますと、「顛倒」とは、「原義は、ひっくり返ること。真理にもとった見方・在り方、すなわち誤謬をいう」のであります。三顛倒というのがあって、それは「誤った想念(想顛倒)、誤った見解(見顛倒)、誤った心の在り方(心顛倒)であります。それから四顛倒があります。(※)「四顛倒」とは、「無常・苦・無我・不浄であることを、逆に常・楽・我・浄(常楽我浄)であると誤解すること」であります。
三顛倒の用例として、『大悲經』(No. 380 那連提耶舍譯)が検索されました。
「羅睺羅(Rāhula)、汝當思惟。誰是生者、(vol.12, 951b20)誰是老者、誰是死者、誰是流轉、誰復還生。羅睺羅、皆是、虚妄顛倒取著。未聞聖法、諸凡夫等。未見諸聖、未信聖法、未學聖法、未解聖法、未知聖法、未住聖法故、心顛倒、想顛倒、見顛倒。以顛倒故生、生故老、老故死。死已還生。馳走流轉枯焦敗壞、愛戀憂愁7椎胸號哭。羅睺羅、一切聖人唯以此法毘尼(dharma-vinaya法・律)、息一切行。於上更無所作。」「未見聖法」(未だ聖法を見ざるが[故に])とは、おそらく見道に至るまではという意味なのでしょう。(※)「それから四顛倒があります。」は「そこから、四顛倒が生じます」の方が、意味は取りやすいです。Cf. 「以三倒故、世間之人、樂(T374.12.377c7)中見苦、常見無常、我見無我、淨見不淨。是名顛倒」『大般涅槃經』曇無讖譯
『仏教辞典』には「諸法を如実に知見することを重んじる仏教では、この説は初期仏教から大乗仏教に至るまで強調された」のであります。この世は無常であり、この無常の世の中に生きることは苦しみであり、われ一人で存在するものはないというように無我であり、この身は不浄であるというのが仏教で説く真理なのであります。それなのに、いつも変わらないと思いこみ、いつもと同じ自分があると思い、人生にはそこそこの楽しみもあると思い、自分だけは変わらないであり続けると思い、この身は清らかだと思う、常楽我浄は実に誤ったものの見方だと説かれたのでした。変わることがないと思っている自分は、実は実体のないものだ、このことを『般若心経』では空(くう)であると説いているのです。そのように観ることができたならば、自己に対する執着はむな(空)しく、そして誤ったものだと気づくことができます。そこで自我の執着から解放されるのであります。自我の執着から解放されることによってこそ、苦しみが滅するというのがブッダの教えにほかならなりません。そうして無常であり、無我であるという真理に目覚めて苦しみを滅することを目指すのです。常楽我浄は誤った見解だったのです。
仏教は如実知見を基本とし、したがって常楽我浄は顛倒の代表的なものとなります。空は無常、無我の教説を含意するということはよく理解できることです。
『仏教辞典』には、「四顛倒説はしばしば四念処観と結びつけられた。その結果、不浄・苦・無常・無我である身体・感受・心・法の四つを、順次、浄・楽・常・我と誤解することが四顛倒で、それを退治するために四念処観が位置づけられた」のであります。「また宝積経迦葉品では、常・楽・我・浄の四顛倒の治療法として諸行無常・一切皆苦・諸法無我・涅槃寂静の四法印を置く」というのであります。常にあるという誤った見解を正すために、諸行無常があり、楽しみがあるという見解を正すために、一切皆苦があり、我という独立したものがあるという見解を正すために諸法無我があり、清らかだという見解を正すために、真の安らかさである涅槃寂静を説いたのでした。そこから大乗仏教になって大転換が起こります。
「四念処」は四顛倒の対治(たいじ)とされ、『宝積経』「迦葉品」では、四法印をもって四顛倒を治すると説かれます。『大寶積經』卷第一百一十二、「普明菩薩會」第四十三におけるそれは以下の通りです。(TNo.310.vol,11.635a2ff)「爾時世尊復告大迦葉、菩薩常應求利衆生、又正修習一切所有福徳善根。等心施與一切衆生。所得智藥遍到十方。療治衆生皆令畢竟。云何名爲畢竟智藥。謂不淨觀治於貪婬。以慈心觀治於瞋恚。以因縁觀治於愚癡。以行空觀治諸妄見。以無相觀治諸憶想分別縁念。以無願觀治於一切出三界願。以四非倒治一切倒。以諸有爲皆悉無常、治無常中計常顛倒。以有爲苦、治諸苦中計樂顛倒。以無我、治無我中計我顛倒。以涅槃寂、治不淨中計淨顛倒。以四念處、治諸依倚身受心法。行者觀身順身相觀、不墮我見。順受相觀、不墮我見。順心相觀、不墮我見。順法相觀、不墮我見。是四念處、能厭一切身受心法、開涅槃門。以四正勤能斷已生諸不善法。及不起未生諸不善法。未生善法悉能令生。已生善法能令増長。取要言之。」
『仏教辞典』には、「大乗仏教中、涅槃経や勝鬘経は[法身としての]如来が常住であり、涅槃は最高の楽であることを強調し、四不顛倒(無常・苦・無我・不浄)をさらに超える存在として、常・楽・我・浄を究極のものと見なした。これを<四波羅蜜>あるいは<四徳>と称する」ようになったのでした。涅槃という悟りの状態を「常楽我浄」であると説いたのです。涅槃、悟りの世界は、変わることなく、安楽であり、それ自身で成り立ち、清らかだと説いたのです。逆にこの常・楽・我・浄である涅槃を、無常・苦・無我・不浄と誤解することがむしろ顛倒であるというようになったのでした。誤った見解であるとされていた常楽我浄が、悟りの世界だと説かれるように大展開したのが大乗仏教なのであります。
『涅槃経』(大乗涅槃経)における「常楽我浄」について、たとえば望月良晃博士は次のように述べておられます。「無常の世界を踏み越えたところに、常住の世界が開ける。それは同時に、楽・我・浄を属性とする。常を離れた楽・我・浄もなければ、楽を離れた常・我・浄もない。要するに表現を絶した一大理想境である。(中略)仏教は、もともと「一切皆苦」の世界観から出発した。仏教は、時代の推移により発展を遂げ、常楽我浄の世界観を展開した。すなわち、「大乗涅槃経」は「願わくは、諸の衆生、悉く常楽我浄に安住して、永く四顛倒を離るることを得ん」との誓願が述べられるのである。(『大乗涅槃経入門』春秋社1998 : 182頁)Cf.「我者(617a23)即是佛義。常者是法身義。樂者是涅槃義。淨者是法義(諸仏菩薩の所有の正法[功徳法]のこと)」、「若欲遠離四顛倒者、應知如(617b16)是常樂我淨」『大般涅槃經』
朝比奈宗源老師が、「仏心には生死の沙汰はない。永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている。仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかである。これが私たちの心の大本である。」と説かれたように、仏心は常楽我浄なのだということになったのです。この教えは人の心に深い安心を与えてくれます。
ここでの「仏心」とは、仏性と言いかえられるようです。でもなかなか理解は難しいです。なお、『延命十句観音経』における常楽我浄は<四波羅蜜><四徳>としての意味合いです。無常・諸苦・無我・不淨、および常・楽・我・浄は仏教を理解するうえでも大切な概念、教えなのです。 合掌